明治の新潟県、雪深い山間部にひっそりと佇む小さな集落があった。名もなきその里は、冬ともなれば深い雪に閉ざされ、外部との交流はほぼ途絶えた。里の住人は古くからの習わしを守り、山の神を崇め、夜には決して外に出なかった。なぜなら、里の周囲には何か得体の知れないものが潜んでいると、古老たちは口を揃えて語っていたからだ。
その年の冬、里に一人の旅人が迷い込んできた。名を尋ねても答えず、ただ「山を越える道を探している」とだけ呟く男だった。垢じみた袷をまとい、顔は土気色で、目はどこか虚ろだった。里の者はよそ者を警戒したが、雪嵐が吹き荒れる中、追い出すわけにもいかず、村長の家に泊めることにした。
村長の娘、16歳の少女は、旅人に強い好奇心を抱いた。彼女は里の外の世界を知らず、旅人の持つ異様な雰囲気に惹かれたのだ。夜、家族が寝静まった後、少女はこっそり旅人の部屋を覗いた。すると、男は部屋の隅で何かを囁きながら、床に奇妙な文様を描いていた。少女の心臓は早鐘を打ち、恐怖と好奇心がせめぎ合ったが、足は勝手に動いて男に近づいた。
「お前も見えるのか?」
男が突然振り向いて言った。少女は息を呑んだ。男の目はまるで底なしの闇のようで、彼女を吸い込むかのようだった。「見えるもの」とは何なのか、少女にはわからなかったが、男の言葉には抗えない力が宿っていた。
翌朝、少女は里の異変に気づいた。いつもなら朝餉の支度で賑わう里が、まるで死に絶えたように静まり返っていた。家々を訪ねても誰もおらず、まるで一夜にして里の住人が消えたかのようだった。少女の胸に冷たい恐怖が広がった。だが、もっと恐ろしいことに、彼女は旅人の姿も見つけられなかった。
少女は里の外れにある古い祠に向かった。そこは山の神を祀る場所で、里の者にとって聖域だった。祠に近づくと、かすかに囁き声のようなものが聞こえてきた。少女は震える足で祠の扉を開けた。すると、そこには里の住人たちがいた。だが、彼らはまるで操り人形のように、目を見開き、口を動かさずに同じ言葉を繰り返していた。
「還れ…還れ…」
その中心に、旅人が立っていた。男の周囲には黒い霧のようなものが漂い、少女の視界を歪ませた。男は少女を見ると、ゆっくりと微笑んだ。その笑顔は人間のものではなく、まるで獣が獲物を前にしたような、冷たく残忍なものだった。
「お前も還るべきだ。この里はもう、こちら側のものだ。」
少女は逃げようとしたが、足が動かなかった。まるで地面に縫い付けられたかのようだった。黒い霧が彼女の体を包み、意識が遠のいていく。彼女の最後の記憶は、里の住人たちの顔が、まるで溶けるように崩れていく光景だった。
それから数十年後、里は完全に廃墟と化した。訪れる者もおらず、ただ雪が降り積もるばかりだった。だが、稀に山を越える旅人が、雪原の果てにぼんやりと灯る光を見たという。その光は、まるで人を誘うように揺らめき、近づく者を決して帰さなかった。
古老の話では、里はかつて山の神と契約を結んだのだという。豊穣と引き換えに、里は神の領域に足を踏み入れ、いつしか人間の住む場所ではなくなった。旅人はその神の使者だったのか、それとも別の何かを引き連れてきたのか、誰も知らない。ただ一つ確かなのは、あの里に足を踏み入れた者は、二度とこの世には戻れないということだった。
今もなお、新潟の山奥には、そんな里の名残があるという。雪の降る夜、風の音に混じって、かすかな囁き声が聞こえることがある。それは、還れと呼びかける声。あなたがもし、その声に誘われたなら、決して振り返ってはいけない。振り返った瞬間、あなたはこの世から消えるだろう。