廃トンネルの囁き

実話風

私は石川県の山間部に住む会社員だ。30歳を過ぎたあたりから、都会の喧騒に疲れ、故郷であるこの静かな町に戻ってきた。自然に囲まれ、空気が澄んでいるこの場所は、幼い頃の記憶を呼び起こす一方で、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。特に、地元で『鬼哭トンネル』と呼ばれる古いトンネルには、子供の頃から近づくなと親に厳しく言われていた。

そのトンネルは、町から少し離れた山道にぽっかりと口を開けている。戦前に作られたもので、今はほとんど使われていない。新しいバイパスができたことで、車も人も通らず、ただ朽ちていくだけだ。地元の古老たちは、トンネル内で事故が多発したことや、夜な夜な奇妙な音が聞こえるという噂を語っていた。子供心に、ただの迷信だと思っていたが、大人になった今でも、なぜかあのトンネルの前を通ると背筋が冷たくなる。

ある夏の夜、会社の同僚たちと飲み会があり、つい飲みすぎてしまった。普段は車で帰るのだが、その日は酒が入っていたため、歩いて帰ることにした。私の家は町の外れにあり、帰り道にはあのトンネルを避けて遠回りするのが常だった。しかし、酔った頭では距離を短くしたいという思いが勝り、ついトンネルを通る近道を選んでしまった。

夜の山道は静かで、虫の声だけが響いていた。トンネルの入り口に近づくと、空気が急に重くなった気がした。街灯はなく、スマホのライトだけが頼りだ。トンネルの入り口は苔むし、コンクリートはひび割れ、まるで時間が止まったかのようだった。深呼吸をして、足を踏み入れた。

トンネルの中は驚くほど冷たく、湿った空気が肌にまとわりついた。足音が反響し、まるで誰かが後ろをついてくるような錯覚に陥る。早く通り抜けようと急ぎ足で進んだが、トンネルの長さは予想以上に感じられた。子供の頃に聞いた噂が頭をよぎる。『トンネルの中で女の泣き声が聞こえる』『振り返ると影が追いかけてくる』。そんな馬鹿げた話を笑いものにしていた自分が、今はただ恐怖に支配されていた。

すると、突然、背後から小さな音が聞こえた。カサッ、という、枯れ葉を踏むような音だ。振り返るのが怖かったが、好奇心と恐怖がせめぎ合い、結局スマホのライトを後ろに照らした。そこには何もなかった。ただの気のせいだと自分を納得させ、再び歩き始めた。しかし、数歩進むと、またカサッ、カサッと音が続く。今度ははっきりと、誰かがついてくるようなリズムだ。

心臓がバクバクと鳴り、汗が背中を伝った。走ろうかと思ったが、足がすくんで動かない。すると、音がピタリと止んだ。ホッとしたのも束の間、今度は耳元で小さな囁き声が聞こえた。『…なんで…ここに…来たの…?』

その声は、女の声だった。低く、掠れていて、まるで喉の奥から絞り出すような声。全身が凍りつき、動けなくなった。スマホのライトを慌てて周囲に照らしたが、誰もいない。ただ、トンネルの壁に映る自分の影が、妙に歪んで見えた。いや、歪んでいるのは影だけじゃない。影の中に、もう一つの人影が混じっているような…。

恐怖が頂点に達し、叫びながらトンネルの出口に向かって走った。どれだけ走ったかわからない。息が切れ、足がもつれそうになりながら、ようやくトンネルの出口が見えた。外に出た瞬間、膝から崩れ落ち、地面にへたり込んだ。振り返ると、トンネルの闇はただ静かにそこにあった。もう二度とあの場所には近づかないと心に誓った。

翌日、気になって地元の古老にトンネルのことを聞いてみた。彼は目を細め、こう語った。『あのトンネルはな、昔、事故で亡くなった女の霊が彷徨ってるって言われてる。夜に通ると、決まって囁き声が聞こえる。運が悪いと、そのまま連れていかれるんだ』。私は笑ってごまかしたが、背中に冷たいものが走った。

それから数週間後、奇妙なことが起こり始めた。夜、寝ていると、枕元で誰かが囁くような気がするのだ。最初は夢だと思っていたが、だんだん声がはっきりしてくる。『…なんで…逃げたの…?』。毎晩、毎晩、同じ声が聞こえる。カーテンを閉め、電気をつけたまま寝ても、声は止まない。しまいには、鏡に映る自分の姿の後ろに、ぼんやりとした女の影が見えるようになった。

私は怖くなり、町を出ることを決めた。引っ越しの準備を進めながら、できる限りトンネルのことを考えないようにした。しかし、引っ越し前日の夜、とうとうその女が現れた。真夜中、目が覚めると、ベッドの足元に女が立っていた。長い黒髪が顔を覆い、目は真っ黒で底が見えない。彼女はゆっくりと手を伸ばし、囁いた。『…一緒に…来て…』

私は叫び声を上げ、電気をつけた。女の姿は消えていたが、部屋の中にはまだ彼女の気配が残っているようだった。翌朝、急いで荷物をまとめ、町を後にした。今は別の場所で暮らしているが、夜になるとあの囁き声が聞こえることがある。鏡を見るたび、彼女が後ろに立っているのではないかと怯える。

あのトンネルを通ったのは、ただの一度の過ちだった。でも、その一度が、私の人生を永遠に変えてしまった。あの場所には、何か得体の知れないものが棲んでいる。私はもう二度と石川県のあの町には戻らない。あなたも、もしあのトンネルを見かけたら、決して近づかないでほしい。でないと、あなたも彼女の囁きに囚われるかもしれない。

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