30年前、大分県の山奥に、霧が立ち込めることで知られた峠があった。地元では「霧峠」と呼ばれ、夜になると誰も近づかない場所だった。峠の頂上付近には、数十年前に事故で亡くなった人々の慰霊碑がひっそりと建ち、苔むした石碑が風に揺れるたびに、不気味な音を立てた。地元の古老たちは、霧が濃い夜には亡魂が彷徨い、通りかかった者を冥界へと引きずり込むと囁き合っていた。
その峠の近くに、小さな集落があった。集落に住む青年、健太は、都会から帰省したばかりだった。30歳手前で、大学を出てからずっと都会で働いていたが、祖母の体調が悪いと聞き、久しぶりに帰郷したのだ。健太は子供の頃、霧峠の噂を聞いて育ったが、都会暮らしでそんな話は笑いものにしか思えなかった。科学的に説明できないことなどない、と彼は信じていた。
ある晩、健太は集落の友人たちと酒を酌み交わしていた。話は自然と霧峠の話題に及んだ。「あの峠、昔は事故が多かったんだよな」と、友人の一人が言った。「特に霧が濃い夜は、運転手が道を外れて崖に落ちたり、対向車とぶつかったり…。今でも、夜中に変な声が聞こえるってさ」
「そんなの、ただの風の音だろ」と健太は笑い飛ばした。だが、友人たちは真剣な顔でこう続けた。「いや、違う。あの峠を通ったやつが、誰もいないはずの後部座席で女の声がしたって言ってた。『止めて』って、囁くんだよ。何度も」
酒の勢いもあって、健太はつい強がってしまった。「じゃあ、俺が今夜通ってみるよ。霧峠なんて、ただの山道だろ。幽霊なんているわけない」友人たちは止めようとしたが、健太の好奇心とプライドはそれを許さなかった。彼は軽トラックに乗り込み、懐中電灯とラジオだけを持って、夜の霧峠へと向かった。
峠への道は、舗装されていない細い山道だった。ヘッドライトが照らす先には、濃い霧が立ち込め、視界は数メートル先までしかなかった。ラジオからは雑音混じりの音楽が流れ、時折、電波が途切れて不気味な静寂が車内に満ちた。健太は少しずつ不安を感じ始めたが、「ただの霧だ」と自分に言い聞かせ、アクセルを踏み続けた。
峠の頂上に近づくにつれ、霧はさらに濃くなった。まるで生き物のように車を包み込む霧は、ヘッドライトの光を飲み込み、健太の視界をほぼ奪った。突然、ラジオが完全に途切れ、車内に重い沈黙が落ちた。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。後部座席から、かすかな音が聞こえたのだ。まるで誰かが息を吐くような、微かな「ハァ…」という音。
健太は振り返ったが、当然そこには誰もいない。シートには荷物すらなかった。「風か…?」と呟きながら、彼は運転に集中しようとした。だが、次の瞬間、はっきりと聞こえた。「止めて…」
女の声だった。低く、震えるような声。健太の心臓は一瞬で凍りついた。後部座席をもう一度確認したが、依然として誰もいない。だが、声は続いた。「止めて…お願い…」声は次第に近づいてくるようだった。まるで、誰かが後部座席から這い寄ってくるかのように。
恐怖が全身を支配した健太は、車を停めることもできず、ただアクセルを踏み続けた。霧はさらに濃くなり、道の輪郭すら見えなくなっていた。すると、突然、目の前に人影が現れた。白い服を着た女が、霧の中にぼんやりと立っていたのだ。健太は咄嗟にハンドルを切り、車は道を外れてガードレールに激突した。
衝撃で意識が遠のく中、健太は見た。助手席に、誰もいないはずなのに、女が座っていた。顔は見えないが、長い黒髪が肩にかかり、彼女の手がゆっくりと健太の腕に触れた。その冷たさは、まるで死そのものだった。「一緒に…行こう…」女の声が、頭の中で響いた。
次に健太が目を開けたとき、彼は病院のベッドにいた。医者によると、車は崖の手前で止まり、奇跡的に命は助かったという。だが、健太の体には不思議なことが起きていた。事故の衝撃では説明できない、腕に残った青黒い手形。そして、夜になると聞こえる、微かな女の声。「止めて…」
健太は二度と霧峠には近づかなかった。だが、あの夜の記憶は、彼の心に深い傷を残した。霧峠は今も、濃い霧が立ち込める夜、亡魂の囁きが響く場所として、地元の人々の間で語り継がれている。
そして、健太がその後、集落の古老に話したところ、驚くべき事実が明らかになった。30年前、霧峠で事故に遭った若い女性がいた。彼女は、恋人とドライブ中に霧で道を見失い、車ごと崖に落ちたのだ。彼女の最後の言葉は、恋人に叫んだ「止めて!」だったという。それ以来、霧が濃い夜には、彼女の魂が峠を彷徨い、通りかかった者を自分の死の瞬間に引き込もうとしているのだと。
健太は今も、霧の深い夜にはあの女の声を聞く。どこからともなく響く、「止めて…」という囁きを。そして、腕の手形は、決して消えることはなかった。