夜霧の集落に響く声

心霊現象

大分県の山奥、深い森に囲まれた小さな集落がある。そこは外界から隔絶され、携帯の電波も届かない場所だった。今から数年前、俺は大学の民俗学の研究のために、その集落を訪れた。名前すら地図に載っていないような場所で、古老たちの言い伝えや風習を記録するのが目的だった。

集落に着いたのは秋の夕暮れ時。空は茜色に染まり、冷たい風が木々の間を抜けていく。集落は古びた木造の家々が点在し、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれていた。住民は少なく、すれ違うのは高齢者ばかり。皆、俺を一瞥すると、すぐに目を逸らし、足早に去っていく。その視線には、好奇心というより、どこか警戒心のようなものが含まれている気がした。

宿泊先は、集落の外れにある古い民家だった。そこに住む老夫婦が、俺を泊めてくれることになっていた。家は軒先が傾き、畳は湿気でほのかにカビ臭かった。夕食を共にしながら、俺は老夫婦に集落の歴史や言い伝えを尋ねた。だが、彼らは曖昧な笑みを浮かべ、「そんな面白い話はないよ」と言葉を濁すばかり。夜が更けるにつれ、老夫婦の態度はますますよそよそしくなり、俺はどこか居心地の悪さを感じ始めていた。

その夜、俺は二階の客間で寝ることになった。窓の外には深い闇が広がり、時折、風に揺れる木々の音が聞こえるだけ。疲れていた俺はすぐに眠りに落ちた。しかし、深夜、ふと目が覚めた。何か異様な気配を感じたのだ。部屋は真っ暗で、静寂が耳に痛いほどだった。だが、どこか遠くから、かすかな声が聞こえてくる。女の声だ。言葉は聞き取れないが、まるで歌うように、抑揚をつけて響いている。

最初は夢の続きかと思った。だが、声は次第に近づいてくる。まるで家の周りをゆっくりと歩きながら、歌っているかのようだ。ゾッとした。こんな夜中に、誰が? 集落には若い女など見かけなかった。恐る恐る窓に近づき、隙間から外を覗いた。だが、濃い霧が立ち込め、月明かりすら遮っている。何も見えない。声だけが、まるで霧の中から這い出てくるように、耳元で響く。

「…おいで…おいで…」

今度ははっきりと、言葉が聞こえた。背筋が凍りついた。声は甘く、誘うようだったが、その裏に底知れぬ冷たさがあった。俺は布団に潜り込み、耳を塞いだが、声は頭の中に直接響いてくるようだった。どれほどの時間が過ぎたのか、声はやがて遠ざかり、ようやく静寂が戻った。だが、眠るどころか、朝まで目を閉じることすらできなかった。

翌朝、老夫婦に昨夜の声を話した。だが、彼らは顔を見合わせ、首を振るだけ。「風の音だろう」と一蹴された。だが、その目には、隠しきれない恐怖が宿っているように見えた。俺は違和感を覚えつつも、研究のために集落の古老たちに話を聞きに行くことにした。

昼間、集落を歩きながら、俺は住民たちに昨夜の声をそれとなく尋ねてみた。だが、誰一人としてまともに答えてくれない。ある老婆に至っては、俺の質問を聞くなり、顔を真っ青にして家に逃げ込んでしまった。まるで、触れてはいけない話題に踏み込んだかのようだった。

日が暮れる頃、俺は集落の外れにある小さな祠を見つけた。苔むした石の祠で、周囲には色褪せたお供え物が放置されている。祠の前には古い木があり、その根元には異様に新しい花束が置かれていた。誰かが最近、供えたものだ。祠の由来を調べようと近づいた瞬間、背後から鋭い声が響いた。

「そこに近づくな!」

振り返ると、昨夜の老夫婦の夫が立っていた。普段の穏やかな態度は消え、目には怒りと恐怖が混ざっていた。「あんた、よそ者だろ。余計なことに首を突っ込むな。さっさと帰れ」と吐き捨てるように言われた。俺は反発しようとしたが、その迫力に気圧され、黙って宿に戻った。

その夜、再びあの声が聞こえた。今度は遠くからではなく、まるで家のすぐ外から響いてくる。「おいで…おいで…」 声は昨夜よりも近く、はっきりとしていた。恐怖で体が震えたが、同時に、知りたいという衝動が抑えきれなくなっていた。この声は何だ? なぜ誰も話さない? 俺は意を決し、懐中電灯を手に、外に出た。

霧はさらに濃く、視界は数メートル先までしかなかった。声のする方向へ、ゆっくりと歩みを進める。冷たい空気が肌を刺し、心臓の鼓動が耳に響く。声は次第に大きくなり、まるで俺を導くように前へと誘う。やがて、霧の先に、ぼんやりとした人影が見えた。女だ。白い着物をまとい、長い黒髪が風に揺れている。だが、顔は見えない。霧に隠されているのか、それとも…顔がないのか。

「おいで…」

女が手を差し伸べた瞬間、俺は我に返った。逃げなきゃ。このまま進めば、取り返しのつかないことになる。俺は踵を返し、全力で宿へ走った。背後から、女の声が追いかけてくる。「おいで! おいで!」 声は次第に叫び声に変わり、まるで俺の魂を引きずり込もうとするかのようだった。

宿にたどり着き、ドアを閉めた瞬間、声はピタリと止んだ。だが、恐怖は消えなかった。翌朝、俺は荷物をまとめ、老夫婦に一言も告げず集落を後にした。バス停までの道のりで、振り返るのが怖かった。背後に何かいるような気がしてならなかった。

後日、大学でその集落について調べたが、ほとんど情報はなかった。唯一、古老の記録に、こんな一節を見つけた。「山の神の声を聞いた者は、決して振り返ってはならない。さもなくば、魂を連れ去られる」。その記述を読んだ瞬間、あの夜の女の声が脳裏に蘇り、俺はしばらく眠れない夜を過ごした。

今でも、霧の深い夜には、あの声が聞こえる気がする。「おいで…おいで…」。俺は決して振り返らない。だが、いつかあの女が、俺を追い詰める日が来るのではないか。そんな恐怖が、未だに心の奥に巣食っている。

タイトルとURLをコピーしました