砂丘に響く子守唄

心霊ホラー

鳥取の夏は、じりじりと照りつける太陽と、どこからともなく漂う潮の香りが特徴だ。特に砂丘は、観光客で賑わう昼間とは打って変わって、夜になると静寂に包まれる。だが、その静寂の中に、時折、誰もいないはずの砂丘に響く奇妙な音が聞こえるという。地元の人々は、それを「砂の歌」と呼ぶ。だが、私が体験したのは、ただの歌ではなかった。

私は、大学で民俗学を専攻する学生だ。夏休みを利用して、鳥取県の砂丘周辺に伝わる怪談や伝承を調査しに来ていた。地元の人々は親切で、多くの話を聞かせてくれたが、その中に気になる噂があった。「夜の砂丘で、女の声で子守唄が聞こえる」というものだ。しかも、その歌を聞いた者は、決まって不思議な体験をするという。ある者は、砂丘で迷い、朝まで彷徨ったと言い、ある者は、背後に誰かの気配を感じたまま、家に帰るまでその感覚が消えなかったと語った。

興味をそそられた私は、実際にその子守唄を聞くために、夜の砂丘へ向かうことにした。地元の人には「若いからって無茶するなよ」と忠告されたが、好奇心が勝った。懐中電灯と録音機、それに念のため水と食料をリュックに詰め、夜の10時頃、砂丘の入り口に立った。月明かりが砂の表面を白く照らし、風がさらさらと砂を動かす音が聞こえる。確かに、昼間の喧騒とは別世界のような静けさだ。

砂丘の奥へ進むにつれ、空気が重くなるような感覚があった。風が止み、音が消えた瞬間、遠くからかすかな歌声が聞こえてきた。女の声だ。低く、ゆったりとしたメロディは、確かに子守唄のようだった。だが、その声にはどこか不自然な響きがあった。まるで、喉の奥から無理やり絞り出したような、掠れた音。録音機を手に、私は声のする方へ近づいた。

歌声は、砂丘の中央にある大きな砂の窪地から聞こえてくるようだった。そこにたどり着いたとき、月明かりに照らされた砂の表面に、奇妙な影が見えた。人の形をした影が、ゆっくりと揺れている。だが、影を落とすはずの人物はどこにもいない。私は息を飲み、懐中電灯をその方向に照らした。光が砂を照らすと、影は消えた。だが、歌声は止まない。むしろ、近づくにつれて、はっきりと聞こえるようになった。

「ねんねんころりよ…おころりよ…」

歌詞は、よく知られた子守唄のものだった。だが、声の主はどこにいる? 私は辺りを見回したが、砂と月明かり以外、何も見えない。録音機を手に、声を追ってさらに進んだ。すると、突然、足元がずるりと崩れた。砂が滑り、私は窪地の底へ転がり落ちた。懐中電灯が手から離れ、どこかへ転がっていく。暗闇の中で、歌声だけが響く。

慌てて録音機を握り直し、立ち上がろうとしたとき、背中に冷たい感触が走った。まるで、誰かが私の肩に手を置いたような感覚だ。振り返っても、誰もいない。だが、気配は消えない。歌声はさらに近くなり、まるで私の耳元で囁いているかのようだった。心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が背中を伝う。私は這うようにして窪地を登り、なんとか脱出した。

だが、砂丘の入り口に戻る道がわからない。月明かりを頼りに歩くが、景色はどこも同じに見える。砂丘は迷路のようだ。時計を見ると、すでに深夜2時を過ぎている。歌声はまだ聞こえる。いや、聞こえるどころか、まるで私を追いかけるように、どこからともなく響いてくる。

「ねんねんころりよ…坊やは良い子だ…」

そのとき、遠くに小さな光が見えた。懐中電灯の光だ! 私は必死にその光を目指して走った。だが、光に近づくにつれ、違和感を覚えた。光は動いている。まるで、誰かが懐中電灯を持って歩いているかのように。だが、こんな時間に砂丘に人がいるはずがない。私は立ち止まり、光を見つめた。すると、光がふっと消えた。そして、次の瞬間、歌声が私の真後ろで響いた。

「ねんねんころりよ…」

振り返る勇気はなかった。私はただ、走った。砂に足を取られながら、必死に走った。どれだけ走ったかわからない。息が上がり、足がもつれそうになったとき、ようやく砂丘の入り口が見えた。駐車場に停めたレンタカーに飛び乗り、エンジンをかけた。車内の時計は朝の4時を指していた。

家に帰り着いたのは、夜が明けてからだった。疲れ果てた私は、録音機を確認する気力もなく、そのまま眠りについた。翌日、録音機を再生してみると、そこには確かに子守唄が録音されていた。だが、声は私が聞いたものとは微妙に違っていた。掠れた女の声に加え、かすかに子どもの泣き声のような音が混じっている。鳥肌が立った。すぐにデータを消去し、録音機を片付けた。

それから数日後、調査のために訪れた地元の古老に、この話をした。すると、彼女は静かに頷き、こう語った。「あの砂丘には、昔、子を失った女が彷徨っていると言われているよ。子守唄を歌いながら、子を探しているんだ。だが、その歌を聞く者は、決まって砂丘に引き込まれる。君が無事だったのは、運が良かっただけだ。」

私は二度と夜の砂丘には行かないと心に誓った。だが、今でも、静かな夜になると、どこからともなく子守唄が聞こえてくる気がする。砂丘の風に乗って、私を呼ぶように。

「ねんねんころりよ…おころりよ…」

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