福島県のとある市街地。古びた商店街の灯りが、夜の闇にぼんやりと浮かんでいる。そこはかつて賑わっていたが、今はシャッターが下りた店が並び、昼間でも人通りは少ない。夜ともなれば、まるで時間が止まったかのような静寂が支配する。私はその夜、残業を終えて家路についていた。時計はすでに22時を回っていた。
いつもならタクシーを拾うところだが、その日は財布を会社に忘れたことに気づき、仕方なく歩いて帰ることにした。街灯の光がアスファルトに反射し、私の足音だけがコツコツと響く。冷たい秋風が首筋を撫で、背筋に軽い寒気が走った。だが、それはただの風のせいだと思っていた。
商店街を抜け、住宅街に入る手前の路地に差し掛かった時、ふと後ろで別の足音が聞こえた。カツ、カツ。私の歩調とは微妙に異なる、リズミカルな音。私は振り返ったが、そこには誰もいない。街灯の光が揺れ、影がチラチラと動くだけだ。「気のせいか」と呟き、歩みを再開した。
だが、数歩進むとまたあの足音が聞こえた。カツ、カツ。今度は少し近くなった気がする。心臓がドクンと跳ね、冷や汗が背中を伝った。もう一度振り返ったが、やはり誰もいない。路地の奥は暗闇に飲まれ、視界の先はまるで底なしの穴のようだった。私は歩く速度を上げた。早くこの路地を抜け、明るい大通りに出たかった。
足音はさらに近づいてくる。カツ、カツ、カツ。まるで私の歩調に合わせるように、だんだんと速くなっている。私は走り出した。足音もまた、追いかけるように速くなった。カツカツカツ! 心臓が喉までせり上がり、息が荒くなる。路地の出口が見えた瞬間、背後で「ハァッ」という息遣いが聞こえた。人間のものとは思えない、獣のような荒々しい息だった。
私は全力で路地を飛び出し、大通りに出た。明るいコンビニの光が目に飛び込み、ホッと息をついた。振り返ると、路地の入り口には何もなかった。ただ、暗闇がそこに蹲っているように見えた。私はコンビニに入り、店員に何か変なものを見なかったかと尋ねたが、店員は首を振るだけだった。
その夜、家に帰ってからも落ち着かなかった。あの足音と息遣いが頭から離れない。私は友人にその話をすると、彼は顔を青ざめさせた。「その路地、昔、変な噂があったんだよ」と彼は言った。なんでも、数十年前、その路地で若い女性が何者かに襲われ、亡くなったという。犯人は捕まらず、事件は迷宮入りになった。それ以来、夜な夜なその路地で足音が聞こえるという噂が立っていた。
私は半信半疑だったが、気になって地元の古老に話を聞きに行った。80歳を過ぎたその老人は、目を細めてこう語った。「あの路地はな、昔から何かおかしいんだ。事件の前から、夜になると変な音が聞こえるって話があった。足音だけじゃない。笑い声とか、泣き声とか……まるで何かがそこに住み着いてるみたいに」
老人はさらに続けた。「お前さんが聞いた足音は、きっとそいつのものだ。あの路地を通る時は、絶対に振り返っちゃいけない。振り返ると、そいつに見つかる。見つかると、もう逃げられねえ」
その話を聞いてから、私は二度とあの路地を通っていない。だが、別の道を通る時も、夜の静寂の中でふと耳を澄ますと、遠くからカツ、カツという足音が聞こえる気がする。それは私の歩調に合わせ、徐々に近づいてくる。振り返りたい衝動に駆られるが、老人の言葉を思い出し、必死で堪える。
ある夜、ついに我慢できなくなった。私は自宅近くの公園で、わざと立ち止まり、耳を澄ませた。すると、確かに聞こえた。カツ、カツ。遠くから、だが確実に近づいてくる。私は息を殺し、動かずじっと待った。足音がすぐ近くまで来た時、突然、風が吹き抜け、木々の葉がざわめいた。その瞬間、足音がピタリと止んだ。
ホッとしたのも束の間、耳元で「ハァッ」という息遣いが聞こえた。首筋に冷たい何かが触れ、まるで誰かが私の肩越しに覗き込んでいるような感覚に襲われた。私は悲鳴を上げ、振り返らずに家まで走った。家に飛び込み、鍵をかけた後も、心臓はバクバクと鳴り止まなかった。
それ以来、私は夜遅くに出歩くのをやめた。だが、静かな夜、窓の外からあの足音が聞こえることがある。カツ、カツ。まるで私を追いかけ続けているかのように。誰かに話しても信じてもらえないかもしれない。だが、あの路地で感じた恐怖は、私の心に今も深く刻まれている。
最近、近所でこんな噂を耳にした。私の住む市街地の別の路地で、夜中に足音を聞いたという人が増えているという。しかも、その足音は決まって振り返ると消えるらしい。私は思う。あれはきっと、ただの噂なんかじゃない。あの路地にいた「何か」が、街を彷徨い始めたのかもしれない。
今でも、夜の街を歩く時、私は必ずイヤホンをして音楽を流す。足音を聞かないように、ただそれだけのために。だが、時折、音楽の隙間から、カツ、カツ、という音が漏れ聞こえる気がする。そのたびに、私は振り返らずに歩き続ける。振り返ったら、きっとそこには「何か」が立っているから。
あなたがこの街を訪れることがあれば、夜の路地には気をつけてほしい。もし、背後で足音が聞こえたら、決して振り返らないで。振り返ったら、あなたもあの「何か」に見つかってしまうかもしれない。