30年前、広島県の山間部にひっそりと佇む小さな集落があった。そこは、深い森に囲まれ、霧が朝から晩まで立ち込める場所だった。集落の名前は誰もが口にしない。まるでその名を呼ぶこと自体が、森の奥に潜む何かを呼び覚ますかのように。
俺は当時、大学で民俗学を学んでいた。夏休みを利用して、広島の山奥に伝わる怪談や伝承を調べるため、友人の紹介でこの集落を訪れた。案内役は、集落の外れに住む老女だった。彼女は痩せこけた体に、まるで何かに怯えるような目つきをしていた。
「若いもんがこんなとこに来るなんて、物好きだね」と、彼女は笑ったが、その笑顔にはどこか不自然なものが混じっていた。俺は気にせず、集落の歴史や伝説について質問を重ねた。だが、彼女は決まって「森の話はするな」とだけ繰り返した。
その夜、俺は集落の公民館に泊まることになった。簡素な木造の建物で、窓の外には濃い霧が漂っていた。夜が更けるにつれ、どこからか低い唸り声のような音が聞こえてきた。最初は風の音だと思ったが、音は次第にリズミカルになり、まるで何かが地面を這うような不気味な響きに変わっていった。
公民館の窓は薄いガラス一枚。外を見ても、霧が厚すぎて何も見えない。だが、俺の背筋を凍らせたのは、窓の外から聞こえたかすかな囁き声だった。「…おいで…おいで…」と、誰かが俺を呼んでいるような声。男とも女ともつかない、まるで複数の声が重なったような不気味な響きだった。
恐怖で体が硬直したまま、俺は窓から目を離せなかった。すると、霧の向こうに、ぼんやりとした人影のようなものが浮かび上がった。いや、人影ではない。それは異様に長い手足を持ち、背中が不自然に曲がった、まるで人間の形を歪めたようなシルエットだった。そいつは窓のすぐ外に立っているようだったが、顔は見えない。霧に隠れて、ただ黒い穴のようなものが口のあたりにあるだけだった。
俺は叫び声を上げそうになったが、喉が詰まって声が出なかった。その瞬間、公民館の扉がガタガタと揺れ始めた。まるで何かが中に入ろうとしているかのように。俺は慌てて荷物を掴み、部屋の隅に隠れた。扉の揺れは数分間続き、ようやく静かになったとき、俺は全身が汗でびっしょりになっていた。
翌朝、老女に昨夜のことを話すと、彼女の顔から血の気が引いた。「あんた、森のモノに目をつけられたんだよ」と、彼女は震える声で言った。彼女の話によると、集落の森には古くから「影のモノ」と呼ばれる存在が棲んでいるという。それは人間の形を真似るが、決して人間ではない。霧の深い夜に現れ、集落の者を森の奥へと連れ去るのだという。
「昔、若い男が森で影のモノに連れ去られた。数日後、森の奥でその男の体が見つかったけど、目も口もなくなってた。まるで魂を吸い取られたみたいに」と、老女は目を伏せながら語った。俺は背筋が凍る思いだったが、好奇心が恐怖を上回り、森の奥で何が起こっているのか知りたいという衝動に駆られた。
その日の夕方、俺は老女の制止を振り切って、森の奥へと足を踏み入れた。霧はさらに濃くなり、木々の間を縫うように進むのは困難だった。空気は冷たく、どこか腐臭のようなものが混じっていた。歩き始めて30分ほど経った頃、俺は奇妙なものを見つけた。地面に、不自然に大きな足跡が点々と続いているのだ。人間の足跡にしては大きすぎ、爪のような痕跡がくっきりと残っていた。
足跡を追ううちに、俺は森の奥深くにある小さな空き地にたどり着いた。そこには、古びた石碑が立っていた。苔に覆われ、文字はほとんど読めないが、かすかに「封」と書かれているのが見えた。その瞬間、背後からガサッと音がした。振り返ると、霧の中にあの歪んだシルエットが立っていた。今度ははっきりと見えた。そいつの体は人間のようでいて、関節が不自然にねじれ、顔には目も鼻もなく、ただ黒い穴が口のように開いているだけだった。
「…おいで…おいで…」と、そいつが囁いた瞬間、俺の体が勝手に動き出しそうになった。まるで意志を奪われるような感覚。必死で石碑にしがみつき、動かないように抵抗した。そいつはゆっくりと近づいてくる。距離が縮まるごとに、腐臭が強くなり、頭がクラクラした。
そのとき、どこからか老女の叫び声が聞こえた。「下がれ! そいつに近づくな!」 彼女は手に塩のようなものを握り、そいつに向かって投げつけた。すると、そいつは耳をつんざくような叫び声を上げ、霧の中に消えていった。俺は膝から崩れ落ち、息も絶え絶えだった。
老女は俺を急いで集落に連れ戻し、こう言った。「あんたは運が良かった。影のモノに連れ去られたら、二度と戻ってこれんよ」。彼女によると、森の石碑は昔、影のモノを封じるために建てられたものだという。だが、封印は年月とともに弱まり、霧の深い夜にはそいつが現れるのだと。
俺はその日のうちに集落を後にした。帰りのバスの中で、窓の外を見ると、霧の中にあの歪んだシルエットが一瞬だけ見えた気がした。以来、俺は二度とあの集落には近づいていない。だが、霧の深い夜になると、耳元で「おいで…おいで…」と囁く声が聞こえることがある。まるで、俺がまだ森のモノに目をつけられているかのように。
今でも、広島の山奥のことを思い出すと、背筋が凍る。あの森には、決して近づいてはいけない。何か、得体の知れないものが、霧の奥で俺たちを待っているのだから。