沖縄の海は、昼間はエメラルドグリーンの輝きで観光客を魅了するが、夜になるとまるで別の世界が広がる。地元の者なら誰もが知っている。浜辺に近づくべきではない夜があることを。
ある夏の夜、私は友人と共に、島の南端にある小さな浜辺でキャンプをしていた。都会の喧騒から離れ、星空の下で過ごす時間は格別だった。焚き火を囲み、ビールを片手に他愛もない話をしていたが、時計が深夜を回ると、どこか空気が変わった。風が止み、波の音だけが不自然に大きく響く。友人の一人が冗談めかして「この浜、幽霊が出るって話あるよね」と言った瞬間、焚き火の炎が一瞬、青く揺れた。
「やめろよ、気味悪いこと言うな」と私は笑いながらたしなめたが、心のどこかで嫌な予感がしていた。この島では、昔から海に関する怪談が尽きない。戦時中の悲劇や、漁師が海で消息を絶った話、そして、夜の浜辺で聞こえる「声」の話。地元の古老は、決してその声に答えてはいけないと口を酸っぱくして言う。答えた者は、海に引きずり込まれるのだと。
その夜、最初に異変に気づいたのは私だった。波の音に混じって、誰かが遠くで呼んでいるような声が聞こえた。女の声だった。低く、切なげで、まるで助けを求めるような。「…おーい…ここに…いるよ…」 声は浜の奥、岩場の方から聞こえてくる。私は凍りついた。友人も全員、声を聞いたようだった。誰もが顔を見合わせ、言葉を失っていた。
「誰かいるのか?」と一人が立ち上がろうとした瞬間、私は咄嗟にその腕を掴んだ。「動くな! 答えるな!」 私の声は震えていた。古老の忠告が頭をよぎったのだ。友人は怪訝な顔をしたが、私の剣幕に押されて座り直した。声はなおも続く。「…おーい…助けて…」 声は次第に近づいてくるようだった。波の音と混じり合い、まるで浜辺全体がその声を響かせているかのようだ。
焚き火の光が揺れ、闇の中に何かが見えた。岩場の影に、ぼんやりと白い人影が立っている。長い髪が風もないのに揺れ、顔は見えない。だが、その視線がこちらをじっと見つめているのが分かった。背筋に冷たいものが走った。友人の一人が小さな悲鳴を上げ、ビールの缶を落とした。缶が砂に転がる音が、やけに大きく響いた。
「見るな! 絶対に見るな!」私は必死に声を絞り出した。古老の話では、声に答えるだけでなく、その姿を直視してもいけないのだ。目を逸らし、焚き火だけを見つめた。心臓が早鐘のように鳴り、冷や汗が止まらない。声はさらに近づき、今度はすぐ近く、テントの裏側から聞こえてきた。「…なぜ…助けてくれないの…?」 声には怒りと悲しみが混じり、まるで私の心を直接揺さぶるようだった。
どれだけの時間が過ぎたのか分からない。声は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。人影も、いつの間にか消えていた。夜が明けるまで、私たちは一睡もできず、焚き火の側で身を寄せ合っていた。朝日が昇り、浜辺が再び穏やかな姿を取り戻すと、私たちは急いで荷物をまとめ、その場を後にした。
後日、島の古老にその夜のことを話すと、彼は静かに頷いた。「あの浜には、昔、恋人を海で失った女の霊が彷徨っている。助けを求める声で人を誘い、海の底に引きずり込むんだ。君たちが無事でよかった。声に答えなかったのは賢明だったよ。」 古老の目は、どこか遠くを見ているようだった。
それ以来、私は夜の浜辺には近づかない。だが、時折、風の強い夜に、遠くからあの声が聞こえる気がする。「…おーい…ここに…いるよ…」 そのたびに、私は布団を被り、耳を塞ぐ。だが、心のどこかで思うのだ。あの夜、もし私が声に答えてしまっていたら、今頃どうなっていたのだろうかと。
沖縄の海は美しい。だが、その美しさの裏には、決して触れてはいけない闇が潜んでいる。夜の浜辺で聞こえる声に、決して耳を傾けてはいけない。それが、この島で生きるための、暗黙の掟なのだ。