凍てつく森の囁き

オカルトホラー

数年前、私は青森県の山奥にある小さな集落に住む友人を訪ねた。彼は都会の喧騒を嫌い、祖父母の古い家を継いでそこで暮らしていた。集落は鬱蒼とした森に囲まれ、冬になると雪が膝まで積もり、まるで外界から切り離されたような静寂に包まれる。私はその静けさが好きだったが、同時にどこか不気味なものを感じていた。

友人の家は集落の外れにあり、背後には深い森が広がっていた。到着した夜、彼は私にこう言った。「この森、夜は絶対に入るなよ。なんか変なもんがいるんだ。」冗談めかした口調だったが、目には本気の色が浮かんでいた。私は笑って流したが、心のどこかで不穏な予感が芽生えていた。

その夜、友人が用意してくれた布団に横になりながら、窓の外の闇を見つめた。雪が降り始め、風が木々を揺らす音が聞こえる。すると、遠くから奇妙な音が耳に飛び込んできた。まるで誰かが雪を踏みしめるような、ギシ、ギシという音だ。最初は鹿か何かだろうと思ったが、音は一定のリズムで、まるで人間の足音のようだった。友人の警告を思い出し、背筋が冷たくなった。

翌朝、友人にその話をすると、彼は顔を曇らせた。「それ、聞いたことある。うちの爺さんも昔、同じ音を聞いたって言ってた。森の奥に何かいるんだよ。」彼の祖父は数年前に亡くなっていたが、生前、森の話をよくしていたという。特に、冬の夜に現れる「影」の話だ。影は人型だが、顔がなく、ただ黒い輪郭だけが雪の中で揺れる。祖父はそれを「森の亡魂」と呼び、決して目を合わせてはいけないと言い聞かせていた。

その日、友人は仕事で集落の中心部へ出かけ、私は一人で家に残った。昼間は穏やかな雪景色が広がり、昨夜の恐怖も薄れていた。私は好奇心に駆られ、家の裏の森の入り口まで散歩に出た。雪に覆われた木々の間は静かで、まるで時間が止まったような雰囲気だった。少し進むと、雪の上に不思議な足跡を見つけた。人間の足跡のようだが、つま先が異様に長く、まるで爪が地面を引っ掻いたような痕跡が残っていた。心臓がドクンと跳ねたが、好奇心が恐怖を上回り、私は足跡を追った。

足跡は森の奥へと続き、やがて小さな空き地にたどり着いた。そこには古い祠が雪に埋もれ、苔むした石が不気味に佇んでいた。祠の周りには同じ足跡がぐるぐると円を描くように残っていた。まるで何かが祠を中心に歩き回ったかのように。私は急に寒気を感じ、踵を返そうとした。その瞬間、背後でギシッと雪を踏む音がした。振り返ると、誰もいない。だが、雪の上には新たに足跡が一つ、増えていた。

慌てて家に戻った私は、友人が帰るまで部屋に閉じこもった。心臓がバクバクと鳴り、窓の外をチラチラと見てしまう。夕暮れが近づくにつれ、森の輪郭が闇に溶けていく。すると、またあの音が聞こえてきた。ギシ、ギシ。今度は家のすぐ近くで、まるで誰かが家の周りを歩き回っているようだった。カーテンを閉め、電気を消して息を潜めた。音はしばらく続き、やがて遠ざかっていった。

友人が帰宅し、震える声で昼間の出来事を話すと、彼は真剣な顔でこう言った。「お前、祠を見ただろ。あそこには昔、村の人間が封じたものがある。触っちゃいけないんだ。」彼の話によると、集落には古い言い伝えがあった。数百年前、村に疫病が広がり、多くの人が死んだ。村人たちは病を鎮めるため、森の奥に祠を建て、犠牲者を供物として捧げたという。しかし、その供物となった者たちの怨念が祠に宿り、冬の夜に森を彷徨うようになった。村人たちはそれを「雪の影」と呼び、祠に近づく者を引きずり込むと恐れていた。

その夜、私は眠れなかった。友人は「もう大丈夫だ」と言うが、窓の外の闇が異様に濃く感じられた。深夜、ふと目を覚ますと、部屋が異様に冷え込んでいた。息が白く、まるで冷凍庫の中にいるようだ。窓を見ると、ガラスに霜が張り、その向こうに何か黒いものが揺れている。心臓が止まりそうになり、布団に潜り込んだ。すると、窓をガリガリと引っ掻く音が聞こえた。鋭い爪がガラスを削るような、耳障りな音だ。恐怖で体が硬直し、動けなかった。

朝になり、友人と窓を確認すると、ガラスには無数の細かい傷が残っていた。まるで何かが必死に中に入ろうとしたかのように。私はその日、急いで荷物をまとめ、集落を後にした。友人は「もう来るなよ」と苦笑したが、彼の目には恐怖が宿っていた。

それから数年が経ち、私はあの出来事を誰にも話していない。だが、冬の夜に雪が降ると、あのギシ、ギシという足音や、窓を引っ掻く音が脳裏に蘇る。今でも思う。あの森の奥、祠の周りを彷徨う「雪の影」は、私を見つけていたのではないか。そして、私が逃げ出した後も、どこかで私を追い続けているのではないか。

青森の冬は美しいが、その美しさの裏には、決して触れてはいけない闇が潜んでいる。私は二度とあの集落には戻らないだろう。だが、あの黒い影は、私の心の奥に今も棲みついている。

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