雪下の亡魂が囁く夜

実話風

明治の秋田県、雪深い山間の村に、若い猟師の男が住んでいた。名は無くとも、村人からは「山の若者」と呼ばれ、勇猛な猟の腕前で知られていた。冬が近づくある日、彼はいつものように山へ分け入り、鹿や兎を追っていた。空は鉛色に閉ざされ、雪がちらつき始めていたが、彼は猟に夢中で、村への帰路を忘れていた。

山の奥深く、普段は足を踏み入れない領域に迷い込んだとき、異変を感じた。風が止み、鳥の声も消え、まるで世界が息を潜めたかのような静寂が広がった。男は背筋に冷たいものを感じつつ、猟銃を握り直した。そのとき、遠くでかすかな音が聞こえた。シャリ、シャリ。雪を踏む音だ。誰かが近くにいる。村人か? いや、この時間にこんな山奥に来る者はいない。

男は音のする方へ目を凝らした。雪の降る薄暗い森の向こう、木々の間から白い影が揺れている。女だ。長い黒髪が雪に溶け込むように揺れ、ぼろぼろの着物をまとった姿が、まるで幽霊のように浮かんでいた。男の心臓が早鐘を打った。「お、お前は何者だ!」と叫んだが、声は森に吸い込まれ、女は答えず、ただじっと彼を見つめていた。いや、よく見ると、彼女の目は空洞だった。黒い穴が顔に開いているかのようだった。

男は恐怖に駆られ、猟銃を構えたが、指が凍りついたように動かない。女が一歩、こちらへ近づく。シャリ、シャリ。雪を踏む音が、まるで男の心臓の鼓動と重なる。彼女の口がゆっくり開き、低い、まるで地の底から響くような声が漏れた。「返せ…私の子を…返せ…」

男は叫び声を上げ、踵を返して走り出した。雪が深く、足を取られながらも必死に逃げた。背後でシャリ、シャリという音が追いかけてくる。振り返る勇気はなかった。どれだけ走ったか、ようやく村の明かりが見えたとき、音はぴたりと止んだ。男は息を切らし、汗と雪で濡れた体を震わせながら家にたどり着いた。

その夜、男は高熱にうなされた。夢の中で、あの女が現れ、繰り返し「私の子を返せ」と囁いた。彼女の顔は近づくたびに腐り落ち、骨だけが男を睨みつけた。翌朝、男は村の古老に相談した。古老は顔を曇らせ、こう語った。「お前が見たのは、雪女でも鬼でもない。あれは、昔この山で死んだ母子の亡魂だ。明治の初め、村が飢饉に襲われたとき、子を守るため山へ食べ物を探しに行った女がいた。だが、雪崩に巻かれ、子を抱いたまま死んだ。以来、彼女は山を彷徨い、子を奪われたと信じてさまようのだ」

男は震え上がった。あの女の声、目、言葉が脳裏に焼き付いて離れない。古老は続けた。「彼女はお前に何かを感じたのだろう。猟師よ、お前は子を奪った者ではないか?」 男は否定したが、心の奥に小さな棘が刺さった。確かに、彼は猟の最中に子鹿を撃ち、その母鹿を仕留めたことがあった。あの母子の魂が、彼を咎めているのか?

次の夜、男は再び夢を見た。今度は女だけでなく、小さな子どもの影が現れ、二人で彼を指差しながら「返せ」と繰り返した。子どもの目は血のように赤く、女の腕は腐り落ち、骨が剥き出しだった。男は叫びながら目を覚ましたが、部屋の中には雪が積もり、窓が開け放たれていた。ありえない。男は窓を閉めようとしたが、その瞬間、ガラスに映った自分の背後に、白い影が立っていた。

「ひいっ!」男は振り返ったが、そこには誰もいない。だが、床には濡れた足跡が続いていた。シャリ、シャリ。音が家の中から聞こえる。男は猟銃を手に取り、震えながら家の中を進んだ。足跡は二階へ続く階段に伸びていた。二階には誰もいないはずだ。妻も子も、この家には自分一人しかいない。なのに、階段を上るたび、冷気が体を刺した。

二階の部屋のドアが、ゆっくりと開いた。そこに、女が立っていた。彼女の腕には小さな子が抱かれ、子は血の涙を流しながら男を睨んだ。「返せ…私の子を…返せ…」 女の声が、家中に響き渡った。男は銃を構えたが、引き金を引く前に、女と子が一瞬で消えた。代わりに、部屋の隅に古い木箱が現れた。中には、子鹿の骨と、ぼろぼろの布切れが詰まっていた。布には血の跡が滲み、まるで人間のもののように見えた。

男は発狂寸前だった。翌日、彼は村の神主にすがり、木箱を祓ってもらった。神主は厳粛な顔で言った。「この骨は、ただの鹿ではない。母子の魂が宿っている。お前が撃った鹿は、彼女の子と結びついていたのだ。山の神を怒らせた代償だ」 男は泣きながら許しを乞い、骨を山の奥に埋め直し、供養の祈りを捧げた。

それから男は猟をやめ、村を出た。だが、どこへ行っても、雪の降る夜にはシャリ、シャリという音が聞こえたという。村に残った者たちは、男が去った後も、山の奥から女の泣き声が響くのを聞いた。彼女は今も子を探し、雪の中で彷徨っている。

この話を聞いた者は、決して冬の山奥へは行かない。なぜなら、雪の下には、母子の亡魂が潜み、子を奪った者を永遠に追い続けるからだ。

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