海鳴りの底に潜む影

ホラー

長崎県の小さな漁村、波多浦。数十年前、昭和の終わり頃の話だ。

この村は、切り立った崖と荒々しい海に囲まれた孤立した土地だった。村人たちは代々、漁業で生計を立て、潮の満ち引きと共に生きてきた。だが、村には古くから言い伝えられる「禁忌」があった。夜の海に、決して舟を出してはならない。なぜなら、夜の海には「何か」が潜んでいるからだ。

その「何か」は、村の古老たちが口を揃えて語る「海鳴りの影」と呼ばれていた。潮が強く引く夜、遠くの海から聞こえる不気味な唸り声。まるで巨大な獣が喉を鳴らすような、ぞっとする音。それが聞こえた夜には、どんな勇敢な漁師も舟を出すことを拒んだ。だが、若い者たちはそんな話を笑いものにしていた。特に、村一番の腕利き漁師だった健太は、古老たちの忠告を鼻で笑っていた。

「海鳴り? そんなのただの波の音だろ。迷信にビビって魚を取らねえなんて、馬鹿らしいぜ」

健太は二十歳そこそこだったが、村の誰よりも海を知っていた。どんな嵐でも舟を操り、必ず大物を仕留めて帰ってくる。そんな彼にとって、夜の海の禁忌など子供だましの戯言にしか思えなかった。

ある夏の夜、健太は仲間たちと酒を飲んでいた。いつものように古老たちの話が話題に上ると、彼は酔った勢いで宣言した。

「いいか、俺がその海鳴りってやつを暴いてやる。今夜、舟を出してやるよ。見とけ、なんにもねえって!」

仲間たちは笑いながらも、どこか不安げな顔をした。だが、健太の勢いは止まらなかった。彼は一人、夜の海へと漕ぎ出した。村の桟橋から遠ざかる小さな舟を、月明かりがぼんやりと照らしていた。

翌朝、健太の舟は戻らなかった。

村人たちは騒然となった。すぐに捜索隊が組まれ、近くの海域をくまなく探した。しかし、舟の破片すら見つからなかった。まるで、健太と舟が海の底に飲み込まれたかのように、何の痕跡も残っていなかった。村の古老たちは顔を見合わせ、こう呟いた。

「海鳴りの影に、呑まれたんだ」

それから数週間、村は重苦しい空気に包まれた。健太の失踪は、村人たちの心に深い恐怖を植え付けた。だが、事態はそれで終わらなかった。

健太が消えた夜から、村に奇妙な出来事が続いた。夜になると、海から不気味な音が聞こえるようになったのだ。それは、ただの波の音ではなかった。低く、唸るような音。時折、まるで何かが水面を叩くような、鈍い衝撃音が混じる。村人たちは怯え、夜は家に閉じこもるようになった。

そんなある夜、村に住む少女、彩花が異変に気づいた。彼女は健太の幼馴染で、彼の失踪に心を痛めていた。その夜、彩花は窓の外から聞こえる音に目を覚ました。いつもの海鳴りとは違う、もっと近くで響く音。彼女は恐る恐る窓を開け、暗い海の方を見た。

そこには、見たこともないものがいた。

月明かりに照らされた海面に、巨大な影が揺れていた。それは、まるで生き物のようだった。いや、生き物だった。だが、魚でも獣でもない。長く、うねるような体。無数の突起が蠢き、時折、水面から突き出たその「何か」は、まるで触手のように空を掴もうとしていた。彩花は息を呑み、恐怖で動けなかった。

その時、影が動いた。ゆっくりと、だが確実に、村の方へと近づいてくる。彩花は叫び声を上げ、両親を起こした。だが、両親が窓に駆け寄った時には、影は消えていた。海は静かで、ただ月明かりが水面に映るだけだった。

彩花の話を聞いた村人たちは、半信半疑だった。だが、彼女の怯えた表情を見て、誰もが不安を覚えた。古老たちは集まり、村の神社の神主に相談を持ちかけた。神主は厳しい表情でこう告げた。

「海鳴りの影は、かつてこの海に封じられた古のものだ。人の欲や傲慢がその封印を弱め、目覚めさせたのかもしれん。今、奴が村に近づいているなら、すぐに対策を講じねばならん」

村人たちは神主の指示に従い、村の周囲に塩を撒き、護符を貼った。神社では連日、祈祷が行われた。だが、それでも異変は止まらなかった。夜の海鳴りはますます激しくなり、時には村の家々の窓が震えるほどの音が響いた。漁師たちは海に出ることを恐れ、村の暮らしは日に日に困窮していった。

そんな中、彩花は健太のことを忘れられなかった。彼女は、健太が海鳴りの影に連れ去られたのだと確信していた。ある夜、彩花は家族に内緒で、健太が最後に舟を出した桟橋に向かった。彼女は小さな懐中電灯を手に、暗い海を見つめた。

「健太、もしそこにいるなら、教えてよ…。お願い…」

その時、海がざわめいた。まるで、彩花の声に応えるかのように、水面が揺れ、泡が浮かんだ。彩花は恐怖で後ずさったが、目を離せなかった。すると、水面からゆっくりと「何か」が浮かび上がってきた。それは、健太の舟だった。だが、舟はボロボロで、まるで何年も海の底に沈んでいたかのように苔と貝殻に覆われていた。

彩花は震えながら舟に近づいた。舟の中には、誰もいなかった。だが、甲板に奇妙な痕跡があった。まるで、巨大な爪で引っ掻いたような深い傷。そして、その傷の周りには、黒く粘つく液体がこびりついていた。彩花は吐き気を覚え、その場にへたり込んだ。

その瞬間、背後で水音がした。彩花が振り返ると、巨大な影が水面からせり上がっていた。それは、彩花が以前に見たものよりもはるかに大きく、近くにいた。無数の触手がうねり、まるで意思を持っているかのように彩花の方へ伸びてくる。影の中心には、ぼんやりと光る目のようなものが見えた。それは、彩花をじっと見つめていた。

彩花は叫び声を上げ、桟橋を走って逃げた。背後で、水面を叩く音と、唸るような海鳴りが追いかけてくる。彼女は必死で村に戻り、家に飛び込んだ。だが、その夜、村の誰もが同じものを見ていた。海からせり上がる巨大な影。触手のようなものが村の家々を這い、窓や壁を叩く音が響いた。

翌朝、村人たちは決断を迫られた。このままでは、村全体が海鳴りの影に飲み込まれる。神主は最後の手段として、村の全ての者を集め、海辺で大規模な儀式を行うことを提案した。それは、かつて海鳴りの影を封じた古の儀式を再現するものだった。

儀式の日、村人たちは海辺に集まり、塩と護符で囲まれた円の中で祈りを捧げた。神主は古い祝詞を唱え、太鼓が打ち鳴らされた。だが、儀式の最中、海が異様なまでに静かになった。まるで、嵐の前の静けさのように。

そして、それは現れた。

海鳴りの影は、想像を絶する大きさだった。まるで山のようにそびえ立つその姿は、触手と鱗に覆われ、中心には無数の目が光っていた。村人たちは恐怖で動けなかった。神主は震える声で祝詞を続け、村人たちに祈るよう叫んだ。

その時、彩花が前に出た。彼女は健太のことを思い出し、恐怖を振り切って叫んだ。

「健太を返して! 村を壊さないで! お願い、消えて!」

その声が、奇跡を呼んだのか、影は一瞬動きを止めた。だが、次の瞬間、巨大な触手が彩花に向かって振り下ろされた。村人たちが悲鳴を上げる中、突然、影の体が揺れ、まるで苦しむようにうねり始めた。海が沸騰するように泡立ち、影はゆっくりと水面下へと沈んでいった。

誰もが呆然とする中、神主が呟いた。

「奴は…まだ完全に目覚めておらんかった。だが、次に目覚める時、止められんかもしれん…」

それから、村は静けさを取り戻した。海鳴りの音は聞こえなくなり、漁師たちは再び海に出られるようになった。だが、彩花は変わってしまった。彼女は夜になると海を見つめ、時折、健太の名前を呟いた。村人たちは、彼女があの夜、何かを見てしまったのだと囁き合った。

今でも、波多浦の古老たちはこう語る。海鳴りの影は、まだ海の底で眠っている。だが、いつかまた、人の傲慢や欲がそれを呼び覚ます日が来るだろう。その時、村は二度と助からないかもしれない。

そして、彩花は今も、夜の海を見つめ続けている。彼女の目には、健太の姿か、それともあの影の目が映っているのか、誰も知らない。

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