山霧に潜む鬼火の誘い

妖怪

数年前、愛媛県の山深い集落に住む俺は、都会の喧騒を離れ、祖父の古い家を継いで林業を始めたばかりだった。集落は松山から車で二時間ほど、携帯の電波もまばらな場所だ。山は鬱蒼と茂り、夜になると霧が谷間を這うように広がる。地元の古老たちは、霧の夜には山に入るなと口を酸っぱくして言っていた。『鬼火が人を喰う』と。

俺はそんな話を笑いものだと思っていた。現代に妖怪だなんて、子供だましもいいところだ。だが、あの夜、俺の考えは根底から覆された。

それは秋の終わり、冷たい風が木の葉を震わせる夜だった。俺は昼間に山で伐採した木材を確認し忘れたことを思い出し、懐中電灯を手に山へ向かった。時計はすでに夜の九時を回っていたが、作業はすぐに終わるはずだった。山道を登りながら、霧がいつもより濃いことに気づいた。懐中電灯の光は白い靄に飲み込まれ、視界は数メートル先までしか届かない。

突然、遠くでカサッと音がした。獣かと思ったが、音は不自然に規則的だった。まるで誰かがゆっくりと歩いているような足音。俺は立ち止まり、耳を澄ませた。カサッ、カサッ。音は近づいてくる。心臓がドクドクと鳴り、背筋に冷たいものが走った。『誰だ!』と叫んだが、返事はない。代わりに、�霧の中から小さな光が浮かんだ。青白い、揺らめく光。鬼火だ。

その光はふわふwaと揺れながら、俺の方へ近づいてきた。体が凍りついたように動かない。光は次第に人の形に変わった。いや、人の形をした何かだ。顔はぼやけ、目だけが黒く落ちくぼんでいる。口は裂けたように広く、笑っているように見えた。『おいで…』と、囁くような声が頭の中に響いた。

俺は後ずさりしたが、足がもつれて転んだ。鬼火の化身はすぐそこまで迫っていた。必死に這って逃げようとした瞬間、背後で別の音がした。ガサガサッ。振り返ると、別の影が霧の中から現れた。獣のような唸り声とともに、そいつは鬼火に飛びかかった。二つの影はもつれ合い、鬼火は甲高い叫び声を上げて消えた。

助けてくれたのは、集落の猟師だった。彼は無言で俺を引っ張り上げ、麓まで連れ戻してくれた。『あれは山のものだ。霧の夜は出てくる』とだけ言い、詳しくは語らなかった。俺はそれ以来、霧の夜に山へは絶対に近づかない。

だが、今でもあの青白い光と、頭に響いた囁きが忘れられない。時折、家の窓から外を見ると、遠くの山に揺らめく光が見える気がする。あれは俺をまだ待っているのかもしれない。

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