今から数十年前、兵庫県の山あいにひっそりと佇む小さな集落があった。そこは、舗装もろくにされていない細い道が山の斜面を縫うように走り、夜になると街灯もなく真っ暗闇に包まれる場所だった。集落の外れには、古びた一軒家に住む老夫婦がいた。彼らは穏やかで人当たりが良く、近隣の住民たちとも親しくしていたが、どこか不思議な雰囲気を持っていた。特に、夜になると決まって家の裏手にある細い山道を、懐中電灯も持たずに歩く姿が目撃されていた。
その山道は、集落の住民が「旧道」と呼ぶ、かつて村と村をつないでいた古い道だった。数十年前、大きな道路が整備されてからはほとんど使われなくなり、草が生い茂り、昼間でも薄暗い雰囲気が漂っていた。旧道の先には、かつて小さな祠があったとされるが、今ではその祠も朽ち果て、どこにあったのかさえ定かではない。それでも、老夫婦は毎晩のようにその道を歩き、深夜に帰ってくるのだという。
集落に住む若い男、仮に太郎と呼ぼう。彼は都会からこの集落に移り住んだばかりで、仕事の都合で遅く帰宅することが多かった。ある晩、太郎はいつものように車で集落に向かっていたが、途中でエンジントラブルに見舞われた。仕方なく車を路肩に停め、懐中電灯を手に集落まで歩いて帰ることにした。時刻はすでに深夜を回っていた。
集落に続く道は、旧道と並行して走る新しい道路だったが、太郎は少しでも近道をしようと、旧道に入ることにした。月明かりが薄く、懐中電灯の光だけが頼りだった。道は予想以上に荒れていて、足元には石や木の根がゴロゴロと転がっていた。風が木々を揺らし、葉擦れの音が不気味に響く。太郎は少し後悔したが、今さら引き返すのも面倒だと自分を励まし、足を進めた。
しばらく歩くと、遠くから何か音が聞こえてきた。カツ、カツ、カツ――。まるで誰かがゆっくりと歩く足音のようだった。太郎は立ち止まり、懐中電灯を周囲に照らしたが、誰もいない。音は一瞬止まったが、またすぐにカツ、カツと聞こえ始めた。しかも、さっきよりも近く、はっきりと。太郎の背中に冷や汗が流れた。「誰かいるのか?」と声を上げてみたが、返事はない。足音だけが、一定のリズムで近づいてくる。
慌てて懐中電灯を音の方向に照らすと、道の先に人影が見えた。いや、人影というより、ぼんやりとした白い輪郭のようなものだった。それはゆっくりと、しかし確実にこちらに向かってくる。太郎は恐怖で足がすくんだが、なんとか勇気を振り絞り、「誰だ!」と叫んだ。すると、足音がピタリと止まり、白い輪郭も消えた。辺りは再び静寂に包まれた。
太郎は心臓がバクバクと鳴るのを感じながら、急いで旧道を抜けようと走り出した。しかし、どれだけ走っても集落の灯りが見えてこない。道はどこまでも続くように思えた。不思議なことに、懐中電灯の光も次第に弱くなり、まるで電池が切れかかっているかのようだった。ふと、背後から再びカツ、カツという足音が聞こえてきた。今度は明らかにすぐ後ろにいる。振り返る勇気もなく、太郎はただひたすら前へ進んだ。
どれほどの時間が経ったのか、突然、目の前に集落の灯りが見えた。太郎は必死でその光に向かって走り、ようやく旧道を抜け出した。振り返ると、暗闇の中に何もなかった。足音も聞こえない。だが、太郎の全身は冷や汗でびっしょりだった。集落に戻った彼は、近くの家に駆け込み、事情を話した。話を聞いた年配の住民は顔をこわばらせ、こう言った。
「あの旧道は、夜には絶対に通っちゃいけない。あの道には、昔、行方不明になった人たちの魂が彷徨ってるって言われてるんだ。特に、深夜に聞こえる足音はな……あれは、生きてる人間を道連れにしようとするものだよ。」
その話を聞いて、太郎は背筋が凍る思いだった。住民は続けた。「あの老夫婦も、昔から妙な噂がある。あの人たちは、まるで何かを探すように毎晩旧道を歩いてるけど、誰も何を探してるのか知らない。もしかしたら、あんたが見たものは……」と、そこで言葉を濁した。
それからしばらくして、老夫婦は突然姿を消した。家はそのまま残され、誰も住まないまま朽ちていった。太郎は二度と旧道には近づかなかったが、あの夜の足音と白い輪郭は、今でも夢に出てくるという。集落の古老たちは、今でもこう囁く。「旧道の足音は、決して止まることはない。もし聞こえたら、振り返らず、ただひたすら走れ」と。
夜が更け、集落の外れで風が木々を揺らすとき、どこからともなくカツ、カツという音が聞こえることがある。だが、誰もその音の正体を確かめようとはしない。旧道は今もそこにあり、暗闇の中で何かを待ち続けているかのように、静かに横たわっている。