2015年、石川県の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む私は、都会の喧騒を離れ、静かな暮らしを求めて移り住んだばかりだった。集落は古い木造家屋が点在し、夜になるとまるで時間が止まったかのような静寂が支配する。だが、その静けさは、私が想像していたよりも深く、どこか不気味なものを孕んでいた。
その夜、私は仕事の資料をまとめるため、遅くまで起きていた。時計の針はすでに深夜1時を回っていた。外は真っ暗で、窓の外には月明かりすら届かない深い闇が広がっている。ふと、遠くから奇妙な音が聞こえてきた。カツ、カツ、カツ……。まるで誰かが硬い靴で地面を叩くような、規則的な足音だった。
最初は近隣の誰かが夜道を歩いているのだろうと思った。だが、この集落に住む人々は皆、早く寝る習慣があり、こんな時間に外を歩く者などいないはずだ。それに、足音は次第に近づいてくるようだった。カツ、カツ、カツ……。音は私の家の裏手にある細い山道から響いてくる。
私は気になって窓に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。だが、街灯もない山道は真っ暗で、何も見えない。足音はさらに近づき、今度は家のすぐ近くで聞こえるようになった。カツ、カツ、カツ……。そのリズムは一定で、まるで機械のように正確だった。だが、なぜかその音には人間らしい「生」の気配が感じられなかった。
心臓がドクドクと高鳴る。私は息を殺し、じっと耳を澄ませた。すると、足音がピタリと止んだ。家の裏口のすぐ近くで、だ。静寂が再び辺りを包み込む。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。なぜなら、足音が止まった場所は、家の裏口からほんの数メートルしか離れていないはずだからだ。
私は恐る恐る裏口のドアに近づき、鍵がきちんと掛かっていることを確認した。だが、その時、ドアの向こうから微かな音が聞こえた。ガリ……ガリ……。まるで誰かが爪でドアを引っ掻くような音だった。私は凍りついた。ドアの向こうに何かいる。間違いない。
「誰だ!?」私は思わず叫んだ。だが、返事はない。ガリ……ガリ……。引っ掻く音だけが続く。私は震える手で懐中電灯を手に取り、ドアの小さな窓から外を照らしてみた。だが、そこには誰もいなかった。ただ、闇が広がっているだけだ。音は止み、再び静寂が戻ってきた。
翌朝、私は裏口を確認したが、ドアには特に傷もなく、異常は見られなかった。だが、妙な違和感が残った。あの足音と引っ掻く音は、ただの気のせいだったのだろうか? 私は近所のお年寄りにそれとなく聞いてみたが、「山には変なものがいるから、夜は出歩かない方がいい」と意味深な言葉を返されただけだった。
それから数日後、私は再び深夜に目を覚ました。またあの足音が聞こえたのだ。カツ、カツ、カツ……。今度は家の周りをゆっくりと回るように響いている。私は布団の中で身を縮め、音が止むのを待った。だが、今回は足音が止まると同時に、別の音が聞こえてきた。ゴト……ゴト……。何か重いものを引きずるような音だ。
私は恐ろしさのあまり動けなかった。音は家の周りを一周し、最終的に裏口の前で止まった。そして、またあのガリ……ガリ……という引っ掻く音が聞こえた。今度ははっきりと、ドアを強く引っ掻く音だった。私は枕を抱え、必死に息を殺した。どれくらい時間が経ったのか、音はやがて遠ざかり、夜は再び静かになった。
翌日、私は集落の古老に相談に行った。彼は私の話を聞くと、顔を曇らせ、こう語った。「その山道には、昔、行方不明になった男の霊が出るって話がある。山で事故に遭い、誰にも見つけられず死んだんだ。夜な夜な、自分の家に帰ろうと彷徨ってるらしい。ドアを引っ掻くのは、家に入れてくれって合図だよ」
私は背筋が凍る思いだった。その夜から、私は裏口に塩を盛り、窓にはお札を貼った。だが、それでも足音は毎晩のように聞こえてきた。カツ、カツ、カツ……。そして、ゴト……ゴト……。引きずる音は次第に大きくなり、まるで何か大きなものを運んでいるかのようだった。
ある夜、ついに我慢の限界に達した私は、懐中電灯とバットを手に裏口を開けた。もう恐怖に耐えきれなかったのだ。外はやはり真っ暗で、懐中電灯の光が闇を切り裂く。すると、遠くの山道に、ぼんやりとした人影が見えた。いや、人影というより、黒い塊のようなものだった。それはゆっくりとこちらに近づいてくる。カツ、カツ、カツ……。足音が同期するように響く。
私は叫び声を上げ、ドアを閉めて鍵をかけた。心臓が破裂しそうなほど鼓動が速い。その夜、足音はいつまでも家の周りを回り続け、朝方になってようやく消えた。私は疲れ果て、眠りに落ちた。
翌日、集落の外れにある古い祠に相談しに行った。そこにはこの地域を守る神様が祀られているという。神主は私の話を聞き、こう言った。「その霊は、お前さんに何かを伝えようとしているのかもしれん。だが、深入りするのは危険だ。祠でお祓いをして、山道に供養の花を供えなさい」
私は言われた通りにした。祠でお祓いを受け、山道の入り口に花と酒を供えた。その夜、初めて足音は聞こえなかった。私はほっと胸を撫で下ろしたが、同時に、どこか物足りなさのようなものを感じた。あの霊は、本当にただ彷徨っていただけだったのだろうか?
それから数ヶ月、私は集落での生活を続けたが、足音が再び聞こえることはなかった。だが、時折、夜中にふと目を覚ますと、遠くでガリ……ガリ……という音が聞こえる気がした。それは私の気のせいかもしれない。だが、今でもあの山道を通る時は、必ず背後を確認してしまう。あの黒い塊が、いつまた現れるかもしれないからだ。

