数年前、山形県の山間部にひっそりと佇む小さな村に、俺は仕事で訪れていた。そこは携帯の電波もまばらで、夜になると星空だけがやけに鮮明に見えるような場所だった。村の外れに、20年以上前に廃校になった小学校があると聞いて、なんとなく興味を引かれた。廃墟マニアでもない俺だが、子供の頃に読んだ怪談本の影響か、廃校ってだけでちょっとゾクッとする何かがある。
その日、仕事が早く終わったので、夕暮れ時にその廃校を見に行くことにした。村の人に場所を聞くと、妙に渋い顔をされた。「あそこは行かない方がいいよ。夜は特にね」と、年配の男性が低い声で言った。理由を尋ねても、「まあ、昔の話さ」とはぐらかされるだけ。逆にその態度が好奇心を煽った。俺は軽い気持ちで、懐中電灯とカメラだけ持って車を走らせた。
廃校は村から少し離れた丘のふもとにあった。鉄製の門は錆びつき、半分開いたまま動かなくなっている。校舎は二階建てで、コンクリートの外壁は苔とひび割れに覆われ、窓ガラスはほとんどが割れて黒い穴のようだった。夕陽が沈む直前の薄暗い光が、校舎を不気味なシルエットに変えていた。俺は門をくぐり、校庭に足を踏み入れた。雑草が生い茂り、壊れたブランコが風に揺れてキーキーと音を立てている。どこか遠くで鳥の鳴き声が聞こえたが、それ以外は不自然なほど静かだった。
校舎の中に入ってみると、空気はひんやりと重く、カビと湿気の匂いが鼻をついた。廊下の床は剥がれたリノリウムがめくれ上がり、足元でカサカサと音を立てる。教室を覗くと、黒板には薄っすらとチョークの跡が残っていて、机や椅子が乱雑に積み重なっていた。まるで時間が止まったかのような光景に、俺は妙な胸騒ぎを覚えた。それでも、せっかく来たんだからと、カメラを構えて写真を撮り始めた。
一階をひと通り見て回った後、階段を上って二階へ向かった。階段は木製で、踏むたびにギシギシと不快な音が響く。二階の廊下は一階よりも暗く、窓から差し込む光がほとんど届かない。懐中電灯の光を頼りに進むと、廊下の奥に一つの教室が目に入った。他の教室と違って、ドアが閉まっている。なぜかそのドアだけが、異様に存在感を放っている気がした。
ドアに近づくと、かすかに何か音が聞こえた。最初は風の音かと思ったが、よく耳を澄ますと、それは小さな子供の笑い声のようなものだった。ゾッとした。こんな廃墟に子供がいるはずがない。それでも、好奇心と恐怖が綱引きをする中で、俺はゆっくりとドアノブに手を伸ばした。冷たい金属の感触が指先に伝わる。ノブを回すと、意外にもスムーズに開いた。
教室の中は、まるで時間がそのまま残されているかのようだった。机と椅子は整然と並び、黒板には「2年1組」と書かれた文字が鮮明に残っている。窓は板で塞がれていて、光が一切入らない。それなのに、なぜか教室全体が薄ぼんやりと明るい。まるで何か別の光源があるかのように。俺の背筋に冷たいものが走った。その時、またあの笑い声が聞こえた。今度ははっきりと、複数の子供の声が重なっている。
「ねえ、遊ぼうよ」
声はすぐ近くから聞こえた。振り返っても誰もいない。懐中電灯を振り回しても、ただの空っぽの教室が照らされるだけだ。心臓がバクバクと鳴り、汗が額を伝う。俺は急いで教室を出ようとしたが、ドアが急に重くなった。まるで誰かに押さえられているように、びくともしない。パニックになりながらドアを叩いていると、背後でまた声がした。
「なんで逃げるの? ここで一緒に遊べるよ」
声は無邪気だったが、その無垢さが逆に恐ろしかった。振り返ると、教室の中央に小さな影が立っていた。いや、立っているというより、浮いているように見えた。ぼんやりとした輪郭のそれは、子供の形をしていたが、顔ははっきりしない。影はゆっくりと近づいてくる。俺は叫びながらドアを全力で引いた。すると、突然ドアが開き、俺は廊下に転がり出た。
這うようにして階段を駆け下り、校舎の外に出た。校庭に出た瞬間、冷たい夜風が頬を撫で、ようやく現実に戻った気がした。振り返ると、校舎の二階の窓から何かが見ているような気がしたが、怖くて確認する勇気はなかった。車に飛び乗り、エンジンをかけて村に戻った。
翌日、村の古老にその話をすると、彼は深いため息をついた。「あの学校では、昔、悲しい事故があったんだ」と彼は語り始めた。数十年前、冬の寒い日に、校舎で火事が起きた。ほとんどの生徒は避難できたが、数人の子供たちが逃げ遅れて命を落としたという。それ以来、廃校になった後も、夜な夜な子供たちの笑い声や足音が聞こえるという噂が絶えなかった。「君が見たのは、きっとその子たちだ。まだ遊ぶ場所を求めて彷徨ってるんだろう」と、古老は静かに言った。
俺はその話を聞いて、背筋が凍る思いだった。あの教室で感じた異様な雰囲気、子供たちの声、浮かぶ影。あれは本当にこの世のものではなかったのかもしれない。それ以来、俺は二度とあの廃校には近づいていない。だが、今でも時折、夢の中であの教室に立っている自分を見ることがある。そして、耳元で囁く子供の声が、こう言うのだ。
「またおいでよ。一緒に遊ぼう」
その声は、決して悪意があるようには聞こえない。ただ、無垢で、純粋で、だからこそ、底知れぬ恐怖を感じるのだ。