廃トンネルの囁き

ホラー

私は石川県の山間部に住む会社員だ。年齢は30歳を少し過ぎた頃。普段は地元の小さな建設会社で働き、週末は友人と釣りやキャンプを楽しむ、ごく普通の生活を送っている。だが、あの夜の出来事は、私の日常を一変させた。

それは去年の夏、8月の蒸し暑い夜だった。会社の同僚たちと近くの居酒屋で飲んだ帰り道、いつものように車で家に向かっていた。私の住む集落は山に囲まれ、街灯もまばらな田舎町だ。夜道は暗く、ヘッドライトだけが頼りになる。いつもなら国道を走って帰るのだが、その日は少し酔っていたこともあり、近道になる古い山道を選んだ。

その山道には、地元で有名な廃トンネルがある。正式な名前は誰も覚えておらず、ただ「旧トンネル」と呼ばれている。数十年前に新しい国道が整備されてからは使われなくなり、今は草に覆われ、入り口は鉄格子で封鎖されている。子供の頃、肝試しで訪れたことがあるが、薄暗い内部と湿った空気が不気味で、すぐに逃げ出した記憶がある。地元では「トンネルに入ると変な声が聞こえる」「夜中に誰もいないのに足音が響く」といった噂が絶えなかったが、大人になった今、そんな話は笑いものだと思っていた。

車を走らせながら、ラジオから流れる懐かしいJ-POPに合わせて鼻歌を歌っていた。山道はカーブが多く、運転に集中する必要があったが、酔いのせいか少し気が緩んでいたのかもしれない。トンネルの入り口が見えてきたとき、ふと異変に気づいた。鉄格子がいつもより少し開いているように見えたのだ。普段なら完全に閉じられているはずの格子が、まるで誰かが無理やりこじ開けたかのように隙間ができていた。

「誰かがイタズラでもしたのかな」

そう思いながら、車をトンネルの脇に停めた。少し好奇心が湧いたのだ。スマホのライトを手に、トンネルの入り口に近づいてみることにした。鉄格子の隙間は、人が一人やっと通れるくらいの幅だった。錆びた鉄の表面には、最近できたと思われる引っかき傷がいくつも刻まれていた。まるで何かが力ずくで開けようとしたかのように。

「こんな時間に誰がこんなこと…」

背筋に冷たいものが走ったが、酔っ払った勢いもあって、隙間から中を覗いてみた。スマホのライトがトンネルの内壁を照らすと、苔むしたコンクリートと、ところどころ剥がれた塗装が浮かび上がった。空気はひんやりと湿っていて、どこかカビ臭い。奥の方はライトの光が届かず、真っ暗な闇が広がっているだけだった。

そのとき、かすかな音が聞こえた。

「…さ…さ…」

囁き声のような、しかし何を言っているのかわからない音。風がトンネルを通り抜ける音にしては、妙に人間の声に似ていた。凍りついたように動けなくなった私の耳に、再びその音が響く。

「…おいで…さ…」

心臓がドクンと跳ねた。声はトンネルの奥から、はっきりと聞こえてきた。スマホを握る手が震え、ライトの光が揺れる。慌てて後ずさりしようとした瞬間、背後でガサッと音がした。振り返ると、茂みの中で何かが動いたような気配。だが、ライトを向けても何も見えない。

「やばい、帰ろう」

そう決めて車に戻ろうとしたとき、トンネルの中からさらに声が聞こえた。今度は複数だ。

「…ここ…おいで…」「…さあ…一緒…」

声は低く、まるでいくつもの人が同時に囁いているようだった。恐怖で足がすくみ、動けなくなった。その瞬間、スマホのライトが突然消えた。電池は十分だったはずなのに、画面は真っ黒。暗闇の中で、声が一層大きく響き始めた。

「…見てるよ…」「…逃げられない…」

私は叫び声を上げ、鉄格子の隙間をくぐって外に飛び出した。車に飛び乗り、エンジンをかける手が震える。後ろを振り返る勇気もなく、ただアクセルを踏み込んだ。山道を下る間、バックミラーに映るトンネルの入り口が、まるでこちらを見つめているように感じた。

家にたどり着いたのは深夜2時を過ぎた頃だった。全身汗だくで、喉はカラカラ。落ち着こうと水を飲んだが、手の震えが止まらない。あの声はなんだったのか。幻聴だったのか。それとも…。

翌日、会社の同僚にその話をすると、年配の先輩が真顔でこう言った。

「あのトンネル、昔はよく事故が起きてたんだ。工事中に何人も死んだって話だし、戦時中は防空壕代わりに使われて、そこで亡くなった人もいるらしい。地元じゃ、夜にあそこを通るのは避けるって暗黙のルールがあるんだよ」

その言葉に、背筋が凍った。あの囁き声は、トンネルに取り残された何かだったのではないか。そんな考えが頭を離れない。

それから数週間、私は毎晩のように悪夢を見た。トンネルの中で無数の手が私を引きずり込む夢。目に見えない何かに追いかけられる夢。しまいには、昼間でも誰かに見られているような感覚に襲われるようになった。ある日、洗面所の鏡を見ると、背後に誰かが立っているような影が一瞬映った。振り返っても誰もいない。でも、確実にそこに「何か」がいた。

結局、私はあの山道を通るのをやめた。会社にも事情を話し、遠回りでも国道を使うようになった。だが、今でも時折、あの囁き声が耳元で聞こえる気がする。特に静かな夜、寝る前に部屋がシーンと静まり返ったとき。

「おいで…さあ…」

私は布団をかぶり、目を閉じるしかない。あのトンネルには二度と近づかないと誓ったが、どこかで感じている。あの「何か」は、私を見つけ、私を覚えている。そして、いつかまた、私を呼びに来るのではないかと。

今、この話を書いている間も、背後でかすかな音が聞こえた気がする。風の音だと自分に言い聞かせるが、なぜか心臓が早鐘を打っている。もし、あなたが石川県の山奥を通ることがあれば、夜の廃トンネルには絶対に近づかないでほしい。あの囁き声は、聞こえた瞬間からあなたを離さない。

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