闇に蠢く妖怪の足音

妖怪

1995年の夏、鳥取県の山奥にひっそりと佇む集落に、私は帰省していた。
実家は古い木造の家で、昼間は蝉の声が響き、夜になると静寂が辺りを包む。
そんな場所で、私はあの夏、忘れられない恐怖を体験した。

私は当時、大学二年生だった。
都会の喧騒に慣れていた私にとって、故郷の静けさはどこか不気味だった。
実家には祖母と両親が住んでおり、毎年夏には一週間ほど滞在するのが恒例だった。
その年も、いつものように祖母の作る素朴な料理を楽しみ、昼間は近くの川で釣りをしたり、幼馴染と他愛もない話をしたりして過ごしていた。
だが、今回は何か違う。
夜になると、家の周囲で妙な音が聞こえるようになったのだ。

最初に異変に気づいたのは、帰省して三日目の夜だった。
寝室の窓から、かすかに「カサカサ」と何かが動く音が聞こえてきた。
最初は木の葉が風で擦れる音だと思った。
だが、風のない夜だった。
私は布団の中で身を固くし、音に耳を澄ませた。
「カサカサ……コトッ、コトッ」
まるで、何かが家の周りを這い、時折小さな石を踏むような音だった。
怖さを感じながらも、疲れていた私はそのまま眠りに落ちた。

翌朝、朝食の席でその話を祖母にした。
「ばあちゃん、昨夜、家の周りで変な音がしたんだけど……何か動物でもいるの?」
祖母は箸を止めて、じっと私を見つめた。
その目は、どこか遠くを見るような、深い闇を宿しているようだった。
「そんな音、聞こえたかい? お前も気をつけなさい。山のものは、時々、里に下りてくるからな」
祖母の言葉は曖昧だったが、その口調には重いものが込められていた。
私は冗談半分に聞き流したが、どこか胸騒ぎがした。

その夜も、音は聞こえた。
今度はもっと近く、まるで家の縁の下を這うような音だった。
「カサカサ……スーッ、スーッ」
息を潜めるような、湿った音が混じる。
私は懐中電灯を手に、そっと窓の外を覗いた。
月明かりに照らされた庭には、何も見えない。
だが、音は止まない。
恐怖が背筋を這い、私は布団に潜り込んで目を閉じた。

次の日、私は幼馴染の男にその話をした。
彼は地元に残り、林業の仕事をしている屈強な男だった。
「そんな音、昔からあるよ。山の獣だろ、気にすんな」
彼は笑って言ったが、どこか目が泳いでいるように見えた。
「でもな、昔、爺さんから聞いた話がある。山に『何か』が住んでて、夏の夜に里に下りてくるってさ。人間の匂いを嗅ぎつけて、家の周りをうろつくんだと」
彼の言葉に、私は笑いものだと返す一方で、祖母の言葉が脳裏をよぎった。

その夜、音はさらに大きくなった。
「カサカサ……ガリッ、ガリッ」
今度は、明らかに何かが家の壁を引っ掻く音だった。
私は恐怖に耐えきれず、祖母の部屋に駆け込んだ。
「ばあちゃん! 何かいる! 家の外に何かいるよ!」
祖母は静かに起き上がり、まるで予期していたかのように言った。
「そうか、とうとう来たか。お前、絶対に外に出るなよ。窓も開けるな」
彼女はそう言うと、仏壇から古いお札を取り出し、玄関の戸に貼り付けた。
「これで大丈夫だ。だが、明日の夜はもっと気をつけなさい。あれは三晩、様子を見に来るんだ」

祖母の言葉に、私は背筋が凍った。
「三晩? あれって何? 何が来てるの?」
だが、祖母はそれ以上何も言わず、ただ「寝なさい」とだけ告げた。
その夜、私は一睡もできなかった。
音は一晩中続き、時には家の戸を軽く叩くような音まで聞こえた。
「トン、トン……スーッ」
まるで、誰かが家の中を覗こうとしているかのようだった。

翌日、私は祖母に詰め寄った。
「ばあちゃん、教えてよ! 何が来てるの? なんでそんな話、初めて聞くんだ?」
祖母は長いため息をつき、ようやく口を開いた。
「この辺りの山には、昔から『アレ』がいる。名前を口にしちゃいけないものだ。人間の形をしてるけど、人間じゃない。夜に里に下りてきて、家の周りをうろつく。気に入った家があれば、そこに住む人間を連れていくって話だ」
私は信じられなかったが、祖母の目は本気だった。
「三晩、様子を見に来る。一晩目は音を立てて、二晩目は戸を叩く。そして三晩目に……中に入ってくる」

その夜が、三晩目だった。
私は恐怖で震えながら、祖母と一緒に仏壇の前で祈った。
お札を手に、祖母は何か古い呪文のようなものを唱えていた。
外からは、いつもの音が聞こえる。
「カサカサ……トン、トン……ガリッ」
だが、今夜の音は違う。
明らかに、家の周りをぐるりと回る足音が加わっていた。
「ザッ、ザッ……スーッ」
まるで、複数の足が地面を踏みしめる音だ。
私は目を閉じ、祖母の手を握りしめた。

突然、玄関の戸が激しく揺れた。
「ドン! ドン!」
まるで、誰かが力任せに叩いているかのようだった。
祖母の呪文は一層大きくなり、私は恐怖で声を上げそうになった。
その時、戸の向こうから、声が聞こえた。
「開けろ……開けろよ……」
低く、濁った、まるで喉の奥から絞り出すような声だった。
私は凍りつき、祖母の手を握る力が強まった。
だが、祖母は冷静に呪文を唱え続け、決して目を閉じなかった。

どれほどの時間が経ったのかわからない。
やがて、音が遠ざかり、静寂が戻った。
朝日が差し込む頃、祖母はようやくお札を下ろし、こう言った。
「もう大丈夫だ。あれは去ったよ。だが、来年も気をつけなさい」

私はその夏を最後に、故郷に帰ることをやめた。
都会に戻った後も、あの夜の音と声が頭から離れなかった。
今でも、静かな夜には、あの「カサカサ」という音が聞こえる気がして、窓の外を覗くのが怖い。
あの集落には、もう誰も住んでいないと聞く。
だが、夏の夜、山から何かが下りてくるという話は、今も語り継がれているという。

あの妖怪は、名前を口にしてはいけない。
だが、私は今でも、その姿を夢に見る。
人間の形をしながら、どこか歪んだ影。
そして、闇の中から響く、低い声。
「開けろ……開けろよ……」

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