廃校の黒板に浮かぶ影

実話風

それは、今から20年ほど前のことだ。宮城県の山間部にひっそりと佇む小さな集落に、俺は大学の民俗学の研究のために訪れていた。集落は過疎化が進み、若者はほとんどいなくなっていたが、昔ながらの風習や言い伝えが色濃く残る場所だった。俺が滞在していたのは、集落の外れにある古い民宿。そこを営む老婆は、どこか遠い目をして、夜になると決まってこう呟いた。

「学校には、行かん方がええよ。あそこは、もう人の場所じゃねえからな。」

その「学校」とは、集落の中心部から少し離れた場所にある廃校のことだった。30年ほど前に生徒数が減り、閉校になった小学校だ。地元の人々は、その廃校について口を閉ざし、近づくことさえ避けているようだった。だが、俺は民俗学を学ぶ者として、こうしたタブーや言い伝えにこそ価値があると考えていた。好奇心も手伝い、俺は老婆の忠告を無視して、廃校を訪れることにした。

その日の午後、曇り空の下、俺は廃校へと向かった。集落から細い山道を登り、雑草に覆われた道を進むと、やがてコンクリートの校舎が見えてきた。窓ガラスはほとんど割れ、壁は苔や蔦に覆われ、まるで時間が止まったような廃墟だった。校門の錆びた看板には、かすれた文字で「〇〇小学校」と書かれていた。空気が重く、鳥のさえずりすら聞こえない。どこか胸騒ぎがしたが、俺は意を決して校舎の中に入った。

校舎の中は、湿ったカビ臭さが鼻をついた。床には落ち葉や埃が積もり、足音がやけに響く。廊下を進むと、教室のドアが半開きになっているのが見えた。恐る恐る中を覗くと、黒板や机が当時のまま残されていた。黒板には、チョークで書かれた文字がうっすらと残っている。「明日の時間割」と書かれていたが、なぜかその文字は異様に鮮明で、まるで昨日書かれたかのようだった。

不思議に思いながら黒板に近づくと、突然、背筋が凍るような感覚に襲われた。背後で、かすかな音がしたのだ。カタッ、カタッ……まるで誰かが教室の机を動かしているような音。振り返ると、誰もいない。だが、教室の空気が一変していた。さっきまで感じなかった冷気が、足元から這い上がってくる。俺は慌てて教室を出ようとしたが、その瞬間、黒板に目を奪われた。

黒板に、俺の名前が書かれていた。

フルネームだ。しかも、俺が今まで誰にも明かしていない、戸籍上の正式な名前だった。チョークの白い文字は、まるで今書かれたばかりのように鮮やかで、かすかに粉が舞っている。心臓がバクバクと鳴り、頭が混乱する。こんなはずはない。俺は一人でここに来たのだ。誰かがいたとしても、俺の名前を知るわけがない。

震える手で黒板を拭こうとしたが、指が触れた瞬間、黒板の表面が冷たく、まるで氷のように感じられた。拭いても拭いても、文字は消えない。それどころか、黒板の奥から、ぼんやりとした影のようなものが浮かび上がってきた。それは、人の形をしていた。小さな、子供のシルエットだ。影はゆっくりと動き、俺の方を向いているように見えた。

「誰だ!?」

思わず叫んだが、声は校舎に虚しく響くだけだった。影は動かず、じっと俺を見つめている。その視線に、耐えきれなくなった俺は教室を飛び出し、廊下を駆け抜けた。だが、廊下の先にあったはずの出口が、なぜか見つからない。代わりに、別の教室のドアが、まるで俺を誘うようにゆっくりと開いた。

その教室に入ると、また黒板があった。そこにも、俺の名前が書かれている。だが、今度は名前だけではない。「かえれ」「ここにいろ」「みつけた」――そんな言葉が、乱雑な字で黒板いっぱいに書き殴られていた。俺は恐怖で足がすくみ、その場にへたり込んだ。すると、背後でまたあの音が響いた。カタッ、カタッ……今度は、複数の机が動くような音だ。振り返ると、教室の机が、まるで誰かに押されたように少しずつ動いている。誰もいないはずなのに。

俺は這うようにして教室を脱け出し、必死に校舎を走った。どこをどう走ったのかもわからないまま、ようやく校舎の外に出たとき、辺りはすでに夕暮れだった。廃校の周囲は、霧のようなものが立ち込め、まるで現実から切り離されたような雰囲気だった。俺は振り返らずに集落まで走り、民宿に戻った。

民宿に戻ると、老婆が玄関で待っていた。俺の顔を見るなり、彼女は静かに言った。

「学校に行ったな。あそこは、子供たちの場所だ。生きた人間が行くと、名前を覚えられる。そして、名前を覚えられたら……もう、逃げられん。」

その言葉に、俺は全身が凍りつくような恐怖を覚えた。老婆はそれ以上何も言わず、ただ静かに部屋に戻っていった。俺はその夜、眠れなかった。窓の外から、かすかに子供の笑い声のようなものが聞こえた気がしたからだ。

翌日、俺は急いで集落を離れた。だが、それ以来、俺の生活はどこかおかしくなった。夜になると、家の壁や窓に、かすれたチョークのような文字で「かえれ」と書かれていることがあった。誰もいない部屋で、机が勝手に動く音が聞こえることもあった。俺はあの廃校で、何かに「見つけられた」のだ。

今でも、時折、夢の中であの黒板を見る。そこには俺の名前と、こう書かれている。

「ずっと、いっしょだよ。」

あの廃校は、今も宮城県の山奥にひっそりと佇んでいるという。地元の人々は、決して近づかない。もし、好奇心で訪れようとする者がいれば、俺はただ一つ、忠告したい。

「名前を、覚えられるな。」

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