今から数十年前、香川県の山深い集落に、誰も寄り付かない廃寺があった。
その寺は、かつては地域の信仰の中心だったが、ある事件をきっかけに人々から忘れ去られ、苔むした石段と朽ちかけた本堂だけが残っていた。地元の古老たちは、寺のことを口にするのもはばかられ、子供たちには「近づくな」とだけ言い聞かせていた。だが、若者たちはそんな言い伝えを笑いものにし、夜な夜な肝試しに訪れることがあった。
その夏、俺は大学で民俗学を学ぶ友人から、香川のこの廃寺について聞いた。友人は、寺にまつわる伝承を卒論の題材にしようとしていた。「一緒に行ってみねえ? 何か面白い話が拾えるかもしれないぜ」と誘われ、俺は軽い気持ちで同行することに。
俺たちは、友人の地元出身の先輩二人を加えた四人で、夏の終わりの蒸し暑い夜に廃寺に向かった。車で細い山道を登り、懐中電灯を手に寺の入り口に立ったとき、すでに空気は重く、虫の声すら途切れがちだった。石段は湿り気を帯び、足元で滑るたびに心臓が跳ねた。
「ここ、なんかヤバくね?」
先輩の一人が冗談めかして言ったが、声はどこか震えていた。俺も同じことを感じていた。寺の境内に入ると、風もないのに木々がざわめき、背筋に冷たいものが走った。本堂の扉は半開きで、暗闇の中に何かが見える気がした。友人が「せっかくだから中、入ってみようぜ」と提案し、俺たちは渋々中へ足を踏み入れた。
本堂の中は、埃とカビの匂いが鼻をついた。懐中電灯の光が、剥がれかけた仏像やひび割れた壁を照らし出す。中央には、かつてご本尊が安置されていたであろう台座がぽつんと残っていた。だが、その台座には、奇妙なものが置かれていた。黒ずんだ布に包まれた、何か小さな人形のようなもの。布の隙間から、赤い糸で縫われた目のようなものが見えた。
「なんだこれ…?」
友人が手を伸ばしかけた瞬間、どこからか低い唸り声が聞こえてきた。俺たちは一斉に振り返ったが、誰もいない。懐中電灯の光が揺れ、影が壁を這うように動いた。「やべえ、なんかいる!」先輩の一人が叫び、俺たちは慌てて本堂を飛び出した。
外に出た瞬間、背後で扉がバタンと閉まる音がした。誰も触っていないのにだ。俺たちの足は自然と速まり、石段を駆け下りた。だが、途中で友人が立ち止まった。「待てよ…何か聞こえねえ?」
耳を澄ますと、確かに聞こえた。遠くから、女の声のようなものが。歌とも呟きともつかない、途切れ途切れの音が、山の闇に響いていた。「…来るな…来るな…」そう聞こえた瞬間、俺の首筋に冷たい息がかかった気がした。振り返ると、誰もいない。だが、背後の暗闇に、ぼんやりと白い影が揺れているように見えた。
「走れ!」
先輩の叫び声で我に返り、俺たちは一目散に車まで逃げ帰った。車に乗り込み、エンジンをかけた瞬間、バックミラーに一瞬だけ、白い着物の女が映った。長い髪が顔を覆い、目だけが異様に大きく、俺をじっと見つめていた。俺は叫び声を上げ、アクセルを踏み込んだ。
集落に戻った俺たちは、放心状態で地元の喫茶店に駆け込んだ。そこで、店のおばさんから恐ろしい話を聞いた。数十年前、廃寺で若い尼僧が自ら命を絶ったのだという。彼女は村の有力者の不義を告発しようとしたが、口封じのために寺に幽閉され、狂気に追い込まれた。彼女の怨念が寺に棲みつき、近づく者を呪うというのだ。「あの寺には、決して入っちゃいけない。あの尼さんの声が聞こえたら、もう遅いんだよ…」
その夜、俺は高熱を出して寝込んだ。うなされるたびに、耳元で女の囁きが聞こえた。「来るな…来るな…」だが、それは次第に「来い…来い…」に変わっていった。夢の中で、俺は再び廃寺に立っていた。目の前に、あの人形が浮かんでいた。赤い糸の目が、じっと俺を見つめ、口元がゆっくりと裂けるように笑った。
翌朝、熱は引いていたが、俺の胸には奇妙な痣が浮かんでいた。まるで、誰かに強くつかまれたような痕だった。友人に連絡すると、彼も同じ痣があると言った。先輩の一人は、その後、原因不明の体調不良で入院した。もう一人は、寺での出来事を誰にも話さず、すぐに都会へ引っ越してしまった。
それから数年、俺はあの夜のことを誰にも話せなかった。だが、時折、静かな夜に、遠くからあの女の囁きが聞こえる気がする。香川の山奥に、今もあの廃寺はひっそりと佇んでいる。誰も近づかず、誰も語らない。だが、俺は知っている。あの寺には、まだ彼女がいる。俺たちを、待ち続けている。
(了)