闇に響く子守唄

実話風

明治の愛知県、尾張の奥深い山間部に、杣川という小さな村があった。村は鬱蒼とした杉林に囲まれ、昼なお暗い谷間にひっそりと佇んでいた。村人たちは林業とわずかな田畑で生計を立て、外部との交流は年に数回の行商が訪れる程度。文明の光が届かぬこの地では、古老たちの言い伝えや怪談が暮らしに深く根付いていた。

村の外れに、朽ちかけた社があった。苔むした石祠には名も知れぬ神が祀られ、村人たちは「山の神」と呼んで畏れ敬った。社の裏手には、深い森に続く獣道があり、子供たちは「そこへ行けば二度と帰れぬ」と親から厳しく言い聞かされていた。だが、好奇心旺盛な子供たちは、時折その禁を破って森の奥を覗き見ることがあった。

そんな村に、若い夫婦とその娘が移り住んできたのは、明治二十年頃のことだった。夫は杣夫として働き、妻は村の女たちと機織りに励み、娘はまだ五歳の愛らしい子で、名を「さよ」と呼んだ。さよは村の子供たちとすぐに打ち解け、川辺で石遊びをしたり、野花を摘んで遊んだりしていた。しかし、彼女には一つだけ他の子と異なる癖があった。夜になると、決まって小さな声で子守唄を歌うのだ。そのメロディはどこか哀しげで、村の者たちが知るどの歌とも違っていた。

「さよちゃんの歌、どこで覚えたの?」
ある日、村の子供が尋ねると、さよは無邪気に笑ってこう答えた。
「森の奥で、お姉さんが教えてくれたの」
その言葉に、子供たちは顔を見合わせた。森の奥に人など住んでいない。ましてや、若い女がいるはずもない。子供たちは気味悪がり、さよと距離を置くようになった。さよはそんな変化に気づかず、ひとりで歌い続けた。

ある夏の夜、村を大雨が襲った。雷鳴が山々にこだまし、川は濁流となって唸りを上げた。その夜、さよの母は娘が布団にいないことに気づいた。慌てて夫を起こし、提灯を手に家を飛び出した。村人たちも総出でさよを探したが、雨と闇に阻まれ、足跡すら見つけられなかった。翌朝、雨が上がると、村人たちは川辺や山道をくまなく探した。だが、さよの姿はどこにもなかった。

数日後、村の若者が山で柴を刈っていると、社の裏手の獣道近くで小さな草履を見つけた。それはさよが履いていたものだった。村人たちは恐れおののきながらも、社の周辺を探し回った。すると、獣道の奥、普段は誰も近づかぬ森の奥深くで、奇妙なものを見つけた。それは、地面に描かれた円形の模様だった。まるで何かがそこに立っていたかのように、草が不自然に踏み潰され、中心には小さな人形が置かれていた。人形は藁で作られ、顔には赤い染料で目が描かれていた。村の古老はそれを見て顔を青ざめ、こう呟いた。
「これは…山の神の依り代だ。さよは神に連れられたのだ」

村人たちは社の神主に相談し、祓いの儀式を行った。だが、その後も不思議なことが続いた。夜になると、村のどこからか子守唄が聞こえてくるのだ。さよの歌と同じ、哀しげな旋律。歌声は風に乗って漂い、聞く者の背筋を凍らせた。ある者は、夜道で小さな影が歌いながら歩くのを見たと言い、またある者は、家の窓に子どもの手形が残っていたと怯えた。

それから数年、さよの両親は村を去った。希望を失い、憔悴しきった二人の姿は、村人たちの心に深い影を落とした。村は次第に衰え、若者たちは都市へと出て行き、杣川はさらに寂れていった。だが、子守唄だけは消えなかった。村に残った者たちは、夜ごとにその歌声を聞いた。歌はまるで村を見守るように、あるいは呪うように、響き続けた。

明治の終わり頃、杣川を訪れた旅の僧が、社の裏手で奇妙な体験をしたという。夜、野宿をしていた僧の耳に、子守唄が聞こえてきた。声は近く、まるで耳元で歌われているようだった。僧が目を凝らすと、獣道の奥から小さな人影が現れた。それは五歳ほどの少女で、ぼろぼろの着物をまとい、顔は青白く、目は虚ろだった。少女は僧を見つめ、ゆっくりと歌い続けた。僧は経を唱え、少女を鎮めようとしたが、少女はにやりと笑うと、森の闇に消えた。翌朝、僧がその場を調べると、地面にはあの円形の模様が残されていた。

村人たちは僧にこう語った。
「それはさよだ。山の神に連れられ、依り代となったのだ。彼女はもう人間ではない」
僧は村を去る際、社の前に護摩を焚き、さよの魂の安寧を祈った。だが、その後も子守唄は止まなかった。村が完全に無人となった後も、杣川の谷間には、夜ごとに歌声が響くという。

今も、愛知の山奥を歩く者は、風に混じる子守唄に耳を澄ますことがある。歌声は遠く、近く、まるで生きているかのように漂う。そして、もしその歌を追いかけて森の奥へ踏み入れたなら、二度と戻れぬ闇に呑まれるという。さよは今もそこにいる。山の神の依り代として、永遠に歌い続けるのだ。

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