無人の村に響く笛の音

ホラー

島根県の山奥、鬱蒼とした森に囲まれた小さな村があった。地図にも載らないような場所で、かつては数十世帯が暮らしていたというが、今は誰もいない。廃墟となった家々が風に揺れ、時折、朽ちた木の軋む音だけが響く。そんな場所に、俺は足を踏み入れることになった。

きっかけは、大学の先輩からの誘いだった。民俗学の研究をしている先輩は、島根の山間部に伝わる奇妙な伝承を追っていた。『その村では、夜になると笛の音が聞こえる』という話だ。地元の古老によると、笛の音は決して人間が吹くものではなく、村を見守る『何か』が鳴らすのだという。興味本位で話を聞いていた俺は、半ば冗談で『一緒に行ってみようよ』と言ってしまい、気づけば車に揺られていた。

村に続く道は舗装されておらず、車がガタガタと揺れる。窓の外には、どこまでも続く木々の影。夕暮れが近づくにつれ、森の奥から冷たい風が吹き抜ける。『本当にこんなところに村があるのか?』と不安がよぎったが、先輩は地図を片手に自信満々だった。やがて、道が途切れ、目の前に古びた鳥居が現れた。鳥居の先には、苔むした石段が続いている。

『ここだ』

先輩の声に促され、俺たちは石段を登り始めた。足元で石がゴロゴロと転がり、時折、風が木々を揺らす音が耳に届く。石段の先には、朽ちかけた社があった。小さな祠のようなもので、扉は半開きになり、中に何かが祀られているようだったが、暗くてよく見えない。社の周りには、古い家々が点在していた。どの家も屋根が崩れ、窓ガラスは割れ、まるで時間が止まったかのように静まり返っている。

『ここがその村か……』

俺は背筋に冷たいものを感じながら、村の中心に向かって歩いた。日が沈み始め、空が赤く染まる。村全体が、まるで血に染まったように見えた。その時、遠くからかすかな音が聞こえてきた。

ピィー……ピィー……

笛の音だ。細く、鋭く、どこか悲しげな音色。俺は思わず立ち止まり、耳を澄ませた。音は村の奥、森の方向から聞こえてくる。先輩も気づいたらしく、顔をこわばらせながら言った。

『やっぱり本当だった。笛の音だ』

俺たちは音のする方へ向かった。好奇心と恐怖が混ざり合い、足が震える。森の入り口に差し掛かると、音はさらに鮮明になった。ピィー……ピィー……。まるで誰かが俺たちを呼んでいるかのようだ。懐中電灯の光を頼りに、木々の間を進む。すると、森の奥に小さな広場が現れた。そこには、まるで祭りの舞台のような石の台が置かれていた。台の周りには、古びた提灯が吊るされ、風もないのにゆらゆらと揺れている。

『何だこれ……』

俺の声がかすれた瞬間、笛の音がピタリと止んだ。静寂が森を包み、耳鳴りだけが響く。すると、広場の中央、石の台の上に、ぼんやりとした人影が浮かんだ。白い着物をまとい、長い黒髪が風に揺れる女の姿。顔は見えないが、彼女がこちらを見つめているのがわかった。背筋が凍りつき、動けなくなる。

『お前……見えるか?』

先輩の声が震えていた。俺は頷くことしかできなかった。女はゆっくりと手を上げ、まるで笛を吹くような仕草をした。だが、音はしない。代わりに、彼女の口元が歪み、笑っているように見えた。その瞬間、提灯が一斉に赤く光り、広場全体が不気味な雰囲気に包まれた。

『逃げろ!』

先輩の叫び声で我に返った。俺たちは一目散に森を抜け、村の外を目指した。背後からは、笛の音が再び響き始めた。ピィー……ピィー……。今度はさっきよりも近く、まるで追いかけてくるようだ。石段を駆け下り、鳥居をくぐり、ようやく車にたどり着いた。エンジンをかけ、アクセルを踏み込む。後ろを振り返ると、鳥居の先に、ぼんやりとした白い影が立っていた。

村を離れ、町に戻るまで、俺たちは一言も話さなかった。車内の空気は重く、笛の音が耳にこびりついて離れない。町に着いた後、先輩は震える手で地図を握りつぶし、こう呟いた。

『あそこには、もう二度と行かない』

それから数日後、先輩から奇妙な話を聞いた。あの村の伝承を調べ直したところ、笛の音は村を見守る神霊が鳴らすものだとされていたが、もう一つの言い伝えがあった。村に迷い込んだ者を、別の世界へ連れ去るために笛を吹く『何か』がいるというのだ。その『何か』は、村に祀られた神とは別のもので、決して近づいてはいけない存在だとされている。

俺は今でも、あの夜のことを思い出すたびに背筋が寒くなる。あの女の姿、笛の音、赤く光る提灯。すべてが頭から離れない。そして、時折、静かな夜に、遠くから笛の音が聞こえる気がする。ピィー……ピィー……。それは、俺を再びあの村へ呼び戻そうとしているのかもしれない。

今、こうして話している間も、どこかで笛の音が響いている気がしてならない。あの村は、まだそこにある。そして、俺たちが見たものは、きっとこの世界のものではなかった。

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