私は、広島県の山奥にある小さな集落で育った。そこは、時間が止まったような場所で、携帯の電波も届かず、夜になると闇が全てを飲み込むような静寂に包まれる。今から10年ほど前、2015年の夏、私は大学進学のために集落を離れていたが、夏休みに久しぶりに実家に帰省した。その時、友人たちと肝試しに行くことになったのが、全ての始まりだった。
集落の外れには、長い間放置された古い寺があった。地元では「廃寺」と呼ばれ、子供の頃から「近づくな」と親に厳しく言われていた場所だ。寺の歴史は誰も詳しく知らないが、数十年前に住職が突然姿を消し、それ以来、誰も管理していないという噂だった。寺の周りは雑草が生い茂り、朽ちかけた木造の門は今にも崩れそうだった。肝試しに選んだ理由は単純で、誰もがその不気味な雰囲気に惹かれたからだ。
その夜、私を含めた5人の友人たちが懐中電灯を手に廃寺に向かった。メンバーは、私の幼馴染である健太、いつも明るいムードメーカーの美咲、霊感があると自称する翔、物静かな優子、そして健太の大学の後輩である亮だった。月明かりもない暗闇の中、懐中電灯の光だけを頼りに進む。寺に近づくにつれ、空気が重くなり、虫の鳴き声すら聞こえなくなった。
「なんか、ヤバい雰囲気だな…」
美咲が冗談めかして言ったが、声は少し震えていた。廃寺の門をくぐると、敷地内には本堂と小さな墓地があった。本堂の扉は半開きで、風もないのに時折ギィッと音を立てる。翔が「ここ、絶対何かいるよ」と囁き、優子が「やめなよ、怖いから」と小さく抗議した。私は、ただの廃墟だろうと自分を落ち着かせようとしたが、胸の奥で何かざわつくものを感じていた。
健太が「せっかく来たんだから、中入ってみようぜ」と提案し、皆渋々ながら本堂に足を踏み入れた。内部は埃とカビの匂いが充満し、床板は足を踏むたびに軋んだ。祭壇には古びた仏像が置かれ、顔が半分崩れ落ちているのが懐中電灯の光で浮かび上がった。美咲が「キモい…」と呟き、亮が「これ、呪われてるんじゃね?」と笑った。その瞬間、どこからか低い唸り声のような音が聞こえた。
「え、なに今の?」
優子が私の腕を掴み、皆一斉に辺りを照らしたが、何も見えない。音は一瞬で消え、ただの風の音かと自分たちを納得させたが、誰もが落ち着かない様子だった。翔が「もう出ようよ、なんかヤバい」と言い出した時、本堂の奥、暗闇の隅に何か白いものが動いた気がした。懐中電灯を向けると、そこには何もなかったが、背筋に冷たいものが走った。
外に出ると、ほっとしたのも束の間、亮が「あれ、墓地見てみね?」と言い出した。健太が「いいね、せっかくなら全部見て帰ろう」と乗り気になり、反対する間もなく墓地に向かった。墓地は本堂の裏にあり、苔むした墓石が無造作に並んでいる。懐中電灯で照らすと、墓石には名前も日付も刻まれていないものばかりだった。「これ、誰の墓だよ…」亮が呟いた瞬間、墓地の奥からカサッと音がした。皆が一斉に光を向けたが、草が揺れているだけだった。
「もう帰ろう、気持ち悪いよ」
優子が泣きそうな声で言うと、翔も「うん、なんかマジでヤバい」と同意した。私も同じ気持ちだったが、健太が「ビビりすぎだろ、もうちょっとだけ」と笑いながら先に進んだ。その時、墓地の端にひときわ古い墓石を見つけた。そこには、かすれた文字で「無縁仏」とだけ刻まれていた。美咲が「これ、めっちゃ怖いんだけど」と言うと、突然、亮が「うわっ!」と叫んだ。
「何か踏んだ!」
亮が足元を照らすと、そこには小さな木の位牌が落ちていた。位牌には文字がなく、ただ黒く塗られただけのものだった。亮が「こんなの持って帰ったらヤバいよな」と冗談半分で位牌を手に持った瞬間、背後でガサガサッと大きな音がした。今度は明らかに草が揺れる音ではなく、何かが動いている音だった。懐中電灯を向けても何も見えない。だが、誰もが感じていた。そこに「何か」がいることを。
「もうダメ、帰る!」
優子が叫び、皆一斉に廃寺を後にした。走って集落に戻る途中、誰も口をきかなかった。家に着いた後も、胸のざわつきは収まらなかった。その夜、私は奇妙な夢を見た。廃寺の本堂に立ち、仏像が私をじっと見つめている。仏像の顔がゆっくりと動き、口から黒い煙が溢れ出し、私の体にまとわりつく。目が覚めると、汗で全身がびっしょりだった。
翌日、健太から連絡があった。亮が昨夜から高熱を出し、うなされているという。亮の部屋を訪ねると、彼は布団の中で震えながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返していた。手にしていた位牌は、なぜか亮のバッグの中に入っていた。健太が「これ、廃寺に返した方がいいよな」と言い、皆で再び廃寺に向かうことになった。
昼間の廃寺は、夜とはまた違った不気味さがあった。陽光が差し込む本堂は、かえって荒廃した様子を際立たせていた。位牌を墓地に戻そうと歩いていると、翔が突然立ち止まった。「あれ…聞こえる?」彼の言葉に耳を澄ますと、どこからか低い呻き声のような音が聞こえてくる。風の音ではない。明らかに人の声に似ていた。
急いで位牌を墓石のそばに置き、逃げるように廃寺を後にした。その夜、亮の熱は下がったが、彼は「あの位牌、絶対何か持ってた」と怯えた目で言った。それ以降、亮は集落に来ることをやめ、健太とも連絡を絶った。美咲は「あの夜、何か見ちゃった気がする」と言い、翔は「もう二度とあそこには行かない」と誓った。優子は、ただ黙って俯いていた。
それから数年後、廃寺は土砂崩れで完全に埋もれてしまった。地元の人たちは「やっとあの場所が消えた」と安堵していたが、私は今でも思う。あの夜、私たちは何かを持ち帰ってしまったのではないか。時折、夜中にふと目が覚めると、耳元で低い唸り声が聞こえる気がする。それは、廃寺の闇がまだ私にまとわりついているかのようだった。
今でも、広島の山奥を通るたび、あの廃寺のことを思い出す。そして、決して近づいてはいけない場所があることを、身をもって知った。