奈良の山間部にひっそりと佇む古刹。その存在は地元の人々の間でもあまり知られていない。俺は大学で民俗学を専攻する学生で、夏休みを利用して奈良県の山奥にあるこの寺を訪れた。目的は、かつてこの辺りで語り継がれていた妖怪の伝承を調べることだった。ネットや文献を漁っても情報は少なく、唯一の手がかりは、地元の古老が残した「夜の寺には近づくな」という曖昧な警告だけ。それでも、好奇心に駆られた俺は、懐中電灯とカメラを手に、夕暮れ時にその寺へと向かった。
寺への道は舗装されておらず、鬱蒼とした杉林に囲まれた細い獣道だった。スマホの電波は途切れ、GPSも役に立たない。薄暗い森の中、虫の声だけが響き、時折遠くで鳥の鳴き声がこだまする。やがて、苔むした石段が現れ、その先に古びた山門が見えた。門の木は腐りかけ、軋む音を立てていた。寺の境内は静寂に包まれ、本堂の屋根には月明かりが反射している。だが、どこか異様な雰囲気が漂っていた。空気が重く、まるで何かに見られているような感覚だ。
本堂の前には小さな祠があり、そこに祀られているのは地元の神様か、それとも何か別の存在なのか、判別がつかないほど風化した石像だった。俺はカメラを構え、境内を撮影しながらメモを取った。すると、どこからか微かな音が聞こえてきた。カツ、カツ……。まるで木の杖で地面を叩くような、規則正しい音。最初は風に揺れる木の枝が地面を叩いているのかと思ったが、音は次第に近づいてくる。俺は懐中電灯を手に辺りを照らしたが、何も見えない。音だけが、まるで俺を包囲するように響く。
「誰かいるのか?」
声を出してみたが、返事はない。代わりに、音が一瞬止まり、すぐに再び鳴り始めた。今度はもっと近く、背後の本堂の方向からだ。振り返ると、本堂の縁側に何かがある。暗闇の中で、ぼんやりと白い人影のようなものが揺れている。心臓が跳ね上がり、息が詰まった。懐中電灯を向けると、それはただの白い布が風に揺れているだけだった。ほっと胸を撫で下ろしたが、音はまだ止まない。カツ、カツ、カツ……。今度は境内を囲む森の奥からだ。
冷静になろうと自分に言い聞かせ、カメラを手に音のする方向へ向かった。すると、森の木々の間に、ぼんやりと光る二つの目のようなものが浮かんでいる。獣か? いや、獣ならもっと低い位置にあるはずだ。あの目は、まるで人間の背丈と同じ高さにあった。恐怖が全身を駆け巡り、足がすくむ。だが、好奇心が恐怖を上回り、俺はカメラのシャッターを切った。フラッシュが光った瞬間、目のようなものは消え、代わりに低いうめき声のようなものが森の奥から響いた。
その声は人間のものではなかった。低く、喉の奥から絞り出すような、まるで怨念が音になったような声。俺は後ずさりしながら懐中電灯を振り回したが、なにも捉えられない。カツ、カツ、という音が再び近づいてくる。今度は複数の方向からだ。まるで、俺を追い詰めるように。パニックになりながらも、寺の境内まで逃げ戻った。本堂の扉は固く閉ざされており、開けることはできなかった。仕方なく、祠の陰に身を隠し、息を殺して音に耳を澄ませた。
しばらくすると、音は止んだ。だが、安心する間もなく、今度は祠のすぐ近くでガサガサと何かが動く音がした。懐中電灯を手に恐る恐る覗くと、そこには誰もいない。だが、祠の石像が、さっき見たときと微妙に角度が違う気がした。いや、そんなはずはない。疲れと恐怖で頭がおかしくなっているだけだ。そう自分に言い聞かせ、祠から離れようとした瞬間、背後でハッキリとした声が聞こえた。
「お前、なんでここに来た?」
振り返ったが、誰もいない。声は男とも女ともつかない、不思議な抑揚を持っていた。心臓が口から飛び出しそうになり、俺は一目散に石段を駆け下りた。木々の間を抜け、獣道を転がるように下り、ようやく車を停めた場所までたどり着いた。車に飛び乗り、エンジンをかけると、バックミラーに一瞬、寺の方向に立つ白い人影が映った気がした。だが、振り返っても何もなかった。
翌日、俺は地元の古老に昨夜のことを話した。すると、古老は顔を強張らせ、こう言った。
「あの寺には、昔から『杖をつく者』が出るって話だ。夜に寺に近づいた者を追い詰め、決して逃がさない。生きて帰れたお前は運が良かった」
古老の話によると、その妖怪はかつて寺に仕えた僧の怨霊とも、森に住む古い神とも言われているが、真相は誰も知らない。ただ一つ確かなのは、夜の寺に足を踏み入れた者は、二度と戻ってこないことが多いということだった。俺はカメラを確認したが、昨夜の写真はすべて真っ黒で、何も写っていなかった。だが、カメラの録音機能には、カツ、カツ、という音と、低いうめき声が確かに残っていた。
それ以来、俺は夜の山奥には近づかないと心に誓った。だが、時折、夢の中であの杖の音と、森の奥で光る目を思い出す。あの妖怪は、今もあの寺で、闖入者を待ち続けているのかもしれない。