数年前の夏、私は大学の友人たちと石川県の山奥にある廃寺を訪れた。
その寺は、地元でも「出る」と噂される場所だった。かつては栄えた古刹だったが、数十年前に住職が謎の失踪を遂げ、参拝者も途絶えたという。寺の周囲は鬱蒼とした森に囲まれ、昼間でも薄暗い。SNSでその不気味な写真を見つけ、好奇心に駆られた私たちは、肝試し感覚で訪れることにしたのだ。
メンバーは私を含めて5人。リーダー格のAは冒険心旺盛で、いつも無鉄砲な提案をする男だった。Bは怖がりだが、Aに逆らえず渋々ついてきた。Cは霊感があると自称する女性で、Dはその彼氏で冷静な性格。私自身は半信半疑だったが、どこかで本物の「何か」に遭遇したいという期待もあった。
夕暮れ時に車で現地に到着すると、鳥のさえずりすら聞こえない静けさが辺りを支配していた。廃寺の門は朽ちかけ、苔むした石段が本堂へと続いている。Aが「早く行こうぜ!」と先頭を切り、私たちは懐中電灯を手に進んだ。石段を登るたびに、背後でかすかな足音が聞こえた気がしたが、振り返っても誰もいない。Bが「やっぱりやめようよ」と震える声で訴えたが、Aは笑いながら「ビビるなよ」と一蹴した。
本堂に辿り着くと、扉は半開きで、内部は埃と湿気でむせ返るような空気が漂っていた。中に入ると、祭壇には古びた仏像が安置され、その目はまるで私たちを見据えているようだった。Cが急に立ち止まり、「ここ、ヤバいよ…何かいる」と囁いた。Dが「気のせいだろ」と宥めたが、Cの顔は真剣そのものだった。
私たちは本堂の奥に進むことにした。そこには狭い階段があり、地下へと続いている。Aが「これ、絶対面白いぞ!」と興奮気味に階段を下り始めた。私は嫌な予感がしたが、皆についていくしかなかった。階段を下りるたびに、空気が重くなり、懐中電灯の光が頼りなく揺れた。Bは「もう戻りたい」と泣きそうな声で訴えたが、Aは聞く耳を持たなかった。
地下に着くと、そこは小さな部屋だった。壁には奇妙な模様が描かれ、中心には石の台のようなものが置かれていた。台の上には、錆びた金属製の器があり、中に黒ずんだ液体が溜まっている。Cが「これは…血の匂い」と震えながら呟いた。その瞬間、背後でガサッと音がした。皆が一斉に振り返ったが、何も見えない。だが、明らかに「何か」が動いた気配があった。
Aだけが異様に興奮し、「これ、めっちゃヤバいじゃん!」と器に手を伸ばした。Dが「触るな!」と叫んだ瞬間、部屋全体が揺れた。いや、揺れたというより、空間そのものが歪んだような感覚だった。懐中電灯が一斉に消え、真っ暗闇の中で誰かの悲鳴が響いた。パニックの中、私は必死に出口を探したが、階段の位置が分からない。耳元で、誰とも知れぬ声が「出て行け」と囁いた。低く、ドスの効いた声だった。
どれだけ時間が経ったのか分からない。気がつくと、私たちは本堂の外、森の入口にいた。皆、放心状態だった。Bは泣きじゃくり、Cは青ざめて何も話せなかった。Aは「何だったんだ、あれ…」と呟き、いつも強気な彼の声が初めて震えていた。私たちの服は泥と汗で汚れ、腕には赤い引っ掻き傷がいくつもできていた。だが、地下での記憶は曖昧で、何が起こったのか誰も正確に思い出せなかった。
その夜、近くの民宿に泊まったが、誰も眠れなかった。夜中、Cが突然叫び声を上げた。「見えた!あの仏像の目が動いた!」と。Dが落ち着かせようとしたが、Cは「ここにもいる」と怯え続けた。翌朝、急いで帰路についたが、車の中で奇妙なことが起きた。ラジオが勝手に点き、雑音の中から「戻れ…戻れ…」と繰り返す声が聞こえたのだ。Aが慌ててラジオを切ったが、車内の空気は凍りついた。
帰宅後も、奇妙な出来事は続いた。私は夜な夜な金縛りに遭い、耳元で囁く声を聞いた。Bは「誰かが家の周りを歩き回っている」と怯え、Cは精神的に不安定になり、Dが付きっきりで看病していた。Aは「あの寺のせいだ」と言い、ネットで調べ始めたが、寺の情報はほとんど出てこなかった。唯一見つけたのは、数十年前にその寺で「儀式」が行われ、住職が失踪したという噂だけだった。
ある日、Aから連絡があった。「あの寺、ヤバいもの封じてたらしい」と。彼が地元の古老から聞いた話では、寺は古くから「何か」を封じるための場所だったが、住職の失踪後に封印が解けたのだという。Aは「もう一度行って、確かめたい」と言い出したが、私は断った。他のメンバーも誰も賛同しなかった。それでもAは一人で寺に向かった。そして、それっきり彼からの連絡は途絶えた。
数週間後、Aの車が寺の近くで発見されたが、彼の姿はなかった。警察の捜索も空しく、Aは行方不明のまま。私は今でも、あの地下の部屋で聞いた囁き声が忘れられない。時折、夜中に目を覚ますと、部屋の隅に暗い影が揺れている気がする。あの寺で見た仏像の目が、どこかで私を見ているような感覚が拭えないのだ。
今、こうしてこの話を書いている間も、背後でかすかな足音が聞こえる。振り返っても誰もいない。だが、私は知っている。あの寺で「何か」を連れてきてしまったのだ。そして、それはまだ、私のすぐ近くにいる。