沈黙の廃村と白い影

実話風

数十年前、高知県の山奥に、ひっそりと佇む小さな村があった。村はかつて林業で栄え、数十世帯が暮らす賑やかな集落だったが、時代と共に若者は都会へ流れ、過疎化が進んだ。村の名は地図からも消え、残されたのは老いた住人と、朽ちかけた家屋、そして深い森に囲まれた静寂だけだった。

その村に、ある夏の夜、若い男がやってきた。男は都会の大学で民俗学を学び、卒業論文のために古い集落の風習や伝承を調べる旅に出ていた。地元の人々から「もう誰も住んでいない」と聞かされていたが、好奇心と冒険心に駆られ、懐中電灯と簡単な荷物を手に、夜の山道を登った。

村にたどり着いたのは、月が中天に昇る頃だった。木々の間から漏れる月光が、苔むした石垣や傾いた家々を照らし、まるで時間が止まったような光景が広がっていた。男は廃屋の一つに足を踏み入れ、埃っぽい畳の上でノートを開いた。村に伝わる怪談や神隠しの伝説を記録しようと、懐中電灯の明かりを頼りにペンを走らせた。

その時、遠くからかすかな音が聞こえた。カサッ、カサッ。枯れ葉を踏むような、軽い足音。男は耳を澄ませたが、音はすぐに消えた。山の獣だろうと気を取り直し、作業を続けたが、今度ははっきりと、家の外から声が聞こえた。「お前…何しに来た?」

声は低く、まるで風に混じるようにかすれていた。男は凍りついた。村は無人のはずだ。懐中電灯を手に、外を照らしたが、誰もいない。ただ、月光に照らされた庭の草が、不自然に揺れているように見えた。男は恐怖を押し殺し、「誰かいるのか?」と叫んだが、返事はなかった。代わりに、家の裏手から、ガリガリと何かを引っかくような音が響いた。

男は荷物をまとめ、廃屋を飛び出した。だが、村の入り口へ続く道は、来た時とは違っていた。木々が異様に密集し、道が細く、まるで迷路のようだった。懐中電灯の光は弱まり、電池が切れかけている。焦る男の耳に、またあの声が聞こえた。「ここに…いちゃいかん…」

声は今度はすぐ背後から聞こえた。振り返ると、そこには白い影が立っていた。女の姿だった。長い髪が顔を覆い、着物のような服はボロボロで、月光に透けて見えた。男は悲鳴を上げ、走り出した。だが、どれだけ走っても、村の風景は変わらない。同じ廃屋、同じ石垣が何度も現れる。まるで村自体が男を閉じ込めているようだった。

やがて、男は村の奥にある古い祠にたどり着いた。苔に覆われた石の祠は、村を見下ろす丘にぽつんと立っていた。祠の前には、なぜか新しい花が供えられていた。男は息を整え、祠に近づいた。すると、祠の裏から、子供の笑い声が聞こえた。無邪気で、どこか不気味な笑い声。男が覗き込むと、誰もいない。だが、地面には小さな手形がいくつも残っていた。

その瞬間、背後でガサッと音がした。白い影の女が、すぐそこに立っていた。顔は見えないが、口元だけが不自然に歪んで笑っているように見えた。「お前も…ここにいるべきじゃない…」 女の声は、まるで頭の中で直接響くようだった。男は祠に背を押し付け、動けなくなった。女の影が近づく。冷たい手が首に触れた瞬間、男は気を失った。

目が覚めた時、男は村の入り口に倒れていた。朝日が昇り、鳥のさえずりが聞こえる。昨夜の出来事が夢だったのかと思うほど、村は静かだった。だが、男の腕には、赤い手形がくっきりと残っていた。荷物を確認すると、ノートには見覚えのない文字がびっしりと書かれていた。古い方言で、「この村を離れるな」「お前は選ばれた」と繰り返し書かれていた。

男はその後、村のことを調べ尽くした。地元の古老によると、数十年前、村で大きな火事が起き、ほとんどの住人が亡くなったという。生き残った者たちは村を捨てたが、死者たちの霊は村に留まり、訪れる者を「仲間」にしようと彷徨っているのだと。祠は、村の守り神を祀るものだったが、火事の後、誰も参拝しなくなり、神は村を見捨てたという。

男はその話を聞いてから、夜に一人でいるのが怖くなった。都会に戻っても、時折、背後でカサッと音がする。振り返ると、誰もいない。だが、鏡に映る自分の背後には、いつも白い影がちらつくのだ。男は今も、あの村から逃げ切れていないのかもしれない。

村は今も地図に載っていない。だが、高知の山奥を歩く者の中には、月夜に廃屋の間を彷徨う白い影を見たという者がいる。村に足を踏み入れた者は、二度と元の世界には戻れない。あなたがもし、高知の山で道に迷い、朽ちた集落を見つけたなら、決して中に入ってはいけない。そこは、死者たちの領域なのだから。

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