長崎県の山奥、鬱蒼とした森に囲まれた集落に、古びた神社があった。
誰も参拝に訪れないその神社は、苔むした鳥居と朽ちかけた本殿が、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。
地元の者は「行ってはいけない」と口を揃え、子供たちは「夜に鈴の音が聞こえる」と囁き合った。
だが、都会から越してきたばかりの俺には、そんな話はただの迷信にしか思えなかった。
俺は大学を卒業後、就職先が決まらず、気分転換にと長崎の親戚の家に身を寄せていた。
その集落は、携帯の電波もまともに届かず、夜になると星空だけがやけに鮮明に見えるような場所だった。
親戚の叔父は寡黙な人で、俺が神社について尋ねても「近寄るな」と一言だけ返し、詳しい話は一切しなかった。
だが、その警告がかえって俺の好奇心を刺激した。
ある晩、退屈さに耐えかねて、懐中電灯を手に神社へ向かった。
月明かりが薄く差し込む山道を進むと、空気が急に重くなり、虫の声すら途絶えた。
鳥居が見えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
石段は苔で滑りやすく、慎重に登ると、風もないのに本殿の鈴が小さく「チリン」と鳴った。
一瞬、誰かがいるのかと思ったが、周囲には誰もいない。
ただ、暗闇の中で本殿の扉がわずかに開いているのが見えた。
「気のせいだ」
そう自分に言い聞かせ、扉に近づいた。
中は真っ暗で、懐中電灯の光が埃っぽい空気を照らし出す。
祭壇には古い鏡と壊れた神器が置かれ、壁には何か黒い染みのようなものが広がっていた。
その染みをよく見ようと近づいた瞬間、背後で再び「チリン」と鈴が鳴った。
振り返ると、誰もいない。
だが、床に影が揺れている。
俺の影ではない、細長く、頭部が異様に歪んだ影だ。
心臓が跳ね上がり、懐中電灯を落としそうになった。
慌てて光を周囲に振り回したが、何も見えない。
ただ、耳元でかすかな囁き声が聞こえた。
「見ズナ…見ズナ…」
何を言っているのか分からないが、声は複数のものに重なり、まるで俺を包み込むように響く。
恐怖で足がすくんだが、なんとか体を動かし、出口へ向かった。
だが、扉が閉まっている。
さっきまで開いていたはずの扉が、まるで誰かに押さえられているかのように動かない。
必死で扉を叩き、叫んだ。
「開けてくれ!誰か!」
その瞬間、背後で「チリン、チリン」と鈴が激しく鳴り響き、冷たい手が俺の肩に触れた。
振り返る勇気はなかった。
ただ、背中に何か重いものがのしかかり、耳元で囁き声が大きくなった。
「見テハナラヌ…見テハナラヌ…」
全身が凍りつき、意識が遠のきそうだった。
どれだけ時間が経ったのか、気付くと俺は神社の石段の下に倒れていた。
懐中電灯は壊れ、服は泥だらけだった。
夜明けの薄光が森を照らし、ようやく虫の声が戻ってきた。
這うようにして集落に戻ると、叔父が玄関で待っていた。
「言っただろう、近寄るなと」
叔父の目は怒りではなく、恐怖に満ちていた。
それから、俺は神社について調べようとしたが、集落の者は誰も口を開かなかった。
ただ、一人の老人が、酒に酔った勢いでこう漏らした。
「あの神社は、昔、封じたものがある。見ず、聞かず、語らず。それが掟だ」
封じたものとは何か、老人はそれ以上話さなかった。
だが、俺の頭には、あの夜の鈴の音と囁き声が今もこびりついている。
都会に戻った今も、夜中にふと「チリン」と鈴の音が聞こえることがある。
そのたび、あの歪んだ影と冷たい手が脳裏をよぎる。
もう二度と、あの神社には近づかない。
だが、時折、鏡に映る自分の背後に、細長い影が揺れている気がしてならない。