廃墟の囁き

実話風

数年前、群馬県の山奥に住む俺は、友人の誘いで肝試しに行くことになった。目的地は、地元でも有名な廃墟だ。かつては病院だったその建物は、戦後すぐに閉鎖され、以来、誰も近づかない場所として語り継がれてきた。地元の古老たちは「あそこにはまだ魂が彷徨っている」と囁き、子供の頃から「夜には絶対に行くな」と言い聞かされてきた。それでも、好奇心と若気の至りで、俺たちはその夜、懐中電灯を手に廃墟へと向かった。

メンバーは俺を含めて4人。リーダー格の健太は怖いもの知らずで、いつも無鉄砲な行動で俺たちを引っ張る奴だ。彩花は健太の幼馴染で、怖がりだけど好奇心旺盛な女の子。最後は健太の後輩の翔太で、気弱だけど健太に憧れてついてきた感じだ。車を廃墟の近くの林道に停め、雑草に覆われた小道を進む。月明かりは薄く、懐中電灯の光だけが頼りだった。風が木々を揺らし、どこか遠くで鳥の鳴き声が響く。すでに空気は重く、誰もが少し緊張していた。

廃墟の入り口にたどり着いたとき、俺の背筋に冷たいものが走った。鉄の門は錆びつき、半分開いたまま動かなくなっていた。その向こうに、黒々としたコンクリートの建物がそびえている。窓ガラスはほとんど割れ、暗闇の中でまるで目のような空洞がこちらを見ているようだった。「おい、行くぞ!」健太の声で我に返り、俺たちは建物の中へ足を踏み入れた。

中は予想以上に荒れ果てていた。床にはガラス片や剥がれた壁紙が散乱し、湿った空気が鼻をつく。懐中電灯の光で照らすと、壁に残された古いポスターや、錆びた医療器具が目に入った。彩花が「なんか、変な匂いしない?」と呟いた瞬間、どこか遠くで「カタッ」と音がした。俺たちは一斉に光をそちらへ向けたが、何も見えない。「ただの風だろ」と健太が笑ったが、声は少し震えていた。

1階を一通り見て回った後、健太が「2階に行こうぜ」と言い出した。階段はコンクリートが剥がれ、ところどころ鉄筋が露出している。慎重に登ると、2階は長い廊下が続いていた。両側には病室らしき部屋が並び、ドアのいくつかは半開きで、中の暗闇が覗いている。彩花が「もう帰ろうよ」と訴えたが、健太は「まだ何も見てねえじゃん」と一蹴。仕方なく奥へ進むと、廊下の突き当たりに大きな部屋があった。

そこは手術室だった。中央に古い手術台があり、周囲には錆びた器具が散乱している。なぜかその部屋だけ、空気が異様に冷たかった。翔太が「ここ、ヤバいよ…」と呟いた瞬間、背後で「ギイッ」とドアが閉まる音がした。振り返ると、さっきまで開いていた入り口のドアが完全に閉まっている。「誰か閉めた?」俺の声に、誰も答えなかった。健太がドアに駆け寄り、取っ手を引いたが、びくともしない。「ふざけんな、開けろよ!」と叫んだが、反応はない。

そのとき、彩花が悲鳴を上げた。「何かいる!」彼女が指差す先、手術台の影に、ぼんやりとした人影が見えた。懐中電灯を向けると、影は消えたが、俺の心臓はバクバクだった。「幻覚だろ、落ち着け!」健太が叫んだが、彼の顔も青ざめている。すると、今度は手術台の上で「カタカタ」と何かが動く音がした。光を向けると、何もない。だが、次の瞬間、俺の耳元で女の声が囁いた。「ここに…いるよ…」

凍りついた俺たちをよそに、部屋の空気がさらに重くなった。彩花は泣き出し、翔太は震えながら壁にへばりついている。健太だけが「ふざけるな!」と叫びながら懐中電灯を振り回したが、その光が照らすたびに、壁に奇妙な影がちらつく。まるで誰かが俺たちを取り囲んでいるようだ。「もうダメだ、逃げよう!」俺の叫びに、皆が我に返った。ドアを無理やりこじ開け、廊下を走る。だが、階段にたどり着く前に、背後から「ドン!」と大きな音が響いた。

振り返ると、誰もいない。なのに、足音が追いかけてくる。「タッ、タッ、タッ」と、まるで誰かが走ってくるような音だ。俺たちは必死で階段を駆け下り、1階の出口を目指した。だが、出口の鉄の門が、さっきよりも固く閉ざされている。「開けろ!開けろ!」健太が叫びながら門を叩いたが、動かない。そのとき、彩花が「あ…」と声を漏らした。彼女の視線の先、建物の窓に、ぼんやりとした白い顔が浮かんでいた。目がない。ただ黒い穴がこちらを見つめている。

俺たちはパニックになり、門を体当たりで押し開けた。なんとか外に出ると、冷たい夜気が肺に流れ込む。振り返ると、廃墟は静まり返り、さっきの顔も消えていた。車に飛び乗り、誰も言葉を発さず、ただひたすら山を下った。家に着いたとき、彩花がポツリと言った。「私の懐中電灯…手術室に置いてきた…」

それから数日後、健太が妙なことを言い出した。「あの夜、撮った写真を見てみろよ」彼が見せたスマホの写真には、廃墟の廊下が写っていた。だが、俺たちの誰もいないはずの場所に、薄っすらと白い人影が映り込んでいた。彩花はそれを見て泣き崩れ、翔太は「もうあの話はしないでくれ」と怯えた。俺も、あの囁き声が頭から離れない。

今でも、あの廃墟の話は俺たちの間でタブーだ。地元では、病院が閉鎖された理由について、誰も詳しく語らない。ただ、古老の一人がこう言っていた。「あの場所は、死にきれなかった者たちの居場所だ。行った者は、必ず何かを持って帰ってくる」と。あの夜、俺たちは何かを連れてきてしまったのだろうか。時折、夜中に耳元で囁く声が聞こえるのは、きっと気のせいだと信じたい。

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