砂丘に潜む無音の影

SFホラー

鳥取の砂丘は、昼間は観光客で賑わう。広大な砂の海に風が描く模様は美しく、まるで自然の芸術だ。しかし、地元の人間なら誰もが知っている。夜の砂丘には、決して足を踏み入れてはいけない理由がある。

私は大学で民俗学を専攻する学生だ。夏休みを利用して、鳥取県の伝承や怪奇現象を調査しに来ていた。地元の古老や漁師から話を聞く中で、砂丘にまつわる奇妙な噂を耳にした。「夜の砂丘には音が消える場所がある」「そこに立つと、何かが寄ってくる」。そんな話だ。興味をそそられた私は、実際にその場所を確かめようと決めた。愚かにも。

調査の同行者は、同じゼミの友人二人だった。地元のガイドに相談すると、彼は顔を曇らせた。「若い子がそんな話に首を突っ込むもんじゃない。やめときな」と忠告されたが、好奇心が勝った。ガイドは渋々、夜の砂丘へ入るためのルートを教えてくれた。ただし、「音が消えたら、絶対に動くな」と念を押された。その言葉が、後でどれほど重要だったか。

その夜、月明かりに照らされた砂丘は、昼間とは別世界だった。風が砂を撫でる音だけが響き、どこか不気味な静けさが漂っていた。私たちは懐中電灯を手に、ガイドが教えてくれた地点を目指した。そこは砂丘の中心部、観光客が立ち入らないエリアだった。歩き始めて30分ほどで、異変に気づいた。風の音が、急に途切れたのだ。

「ここ、なんか変じゃない?」
友人の一人が囁いた。確かに、空気が重い。まるで水の中にいるかのように、音が遠く感じる。私はガイドの言葉を思い出し、「動かないで」と小声で指示した。三人で立ち止まり、耳を澄ませた。だが、何も聞こえない。完全な無音。懐中電灯の光を周囲に当てても、ただ砂が広がるだけだ。

その時、背筋が凍った。背後で、かすかな砂の擦れる音がした。振り返ると、誰もいない。だが、明らかに何かがあった。友人の一人が震える声で言った。「今、影を見た。そこの砂の上で、動いてた」
私は懐中電灯をその方向に向けたが、何も映らない。ただ、砂の表面に、不自然な窪みができていた。まるで、誰かがそこに立っていたかのように。

「落ち着いて。動かないで」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。だが、心臓はバクバクと鳴り、冷や汗が止まらない。すると、今度は別の友人が小さな悲鳴を上げた。「足元! 何かいる!」
見ると、彼女の足元の砂が、ゆっくりと動いていた。まるで、砂の下から何かが這い出てくるように。

パニックになりかけたその瞬間、遠くから低い唸り声のような音が聞こえた。人間の声とも、獣の声ともつかない、不気味な響きだ。音の方向を見ると、砂丘の頂上に、ぼんやりとした影が立っていた。人間の形をしているが、輪郭が揺れている。まるで、砂そのものが人の形を模しているかのようだった。

「走れ!」
私は叫び、友人と共に来た道を戻り始めた。だが、走るたびに足が砂に沈み、まるで何かに引きずられるような感覚があった。振り返ると、影はもうそこにいなかった。だが、代わりに、砂の表面を何かが這うような跡が、じわじわと私たちを追ってくるのが見えた。

どれだけ走ったかわからない。息が切れ、足がもつれそうになった頃、ようやく砂丘の入り口近くの舗装路にたどり着いた。そこでは、ガイドが懐中電灯を持って待っていた。彼は私たちの顔を見るなり、「言っただろ、行くなと」と吐き捨てた。だが、私たちの話を聞くと、表情がさらに険しくなった。

「それは『無音の影』だ。あの砂丘には、昔から何か得体の知れないものが棲んでる。音を消して、近づいてくるんだ。見つかったら、逃げ切るのは難しい」
ガイドはそう言い、懐中電灯で私たちの背後を照らした。そこには、砂の跡が、まるで生き物のように舗装路の手前で止まっていた。

それから数日後、私は地元の古い文献を調べた。そこには、砂丘で消息を絶った人々の記録が残っていた。共通するのは、「音が消えた」と感じた直後に姿を消したこと。そして、近年では、砂丘の地下に未知の構造物が発見されたという記事を見つけた。科学者たちは「自然の地形」と結論づけていたが、地元民の間では、「あれは生き物の巣だ」と囁かれている。

今でも、あの夜のことを思い出すと、背筋が寒くなる。無音の中で聞こえた砂の擦れる音、揺れる影の輪郭、そして、足元で動く砂。あれは、ただの幻覚だったと言い聞かせたい。だが、友人の一人が持ち帰った写真には、砂丘の遠くに、ぼんやりとした人影が写っていた。誰もそんな場所にいるはずがないのに。

鳥取の砂丘は美しい。だが、夜にそこへ行くなら、音に気をつけてほしい。もし、風の音が消えたら、決して振り返らないで。影は、すぐそこにいるかもしれないから。

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