今から数年前、福岡県の山奥に住む俺は、大学を卒業して地元に戻ってきたばかりだった。
都会の喧騒に疲れ、故郷の静けさに癒される日々。
そんなある夏の夜、幼馴染のタケシから奇妙な誘いを受けた。
「なあ、裏山の古い社、行ってみねえ?なんか面白いもん見つけたんだよ」
タケシの目はどこか異様に輝いていた。
裏山の社は、子供の頃に「行っちゃダメ」と親にきつく言われた場所だ。
正式な名前もわからず、村の古老たちが「古い神様がいる」とだけ語る、朽ちかけた小さな社。
興味本位と、どこか懐かしい冒険心に駆られ、俺は懐中電灯を手にタケシについていくことにした。
夜の山道は、昼間とはまるで別世界だった。
虫の声が途切れ、風すらない静寂。
懐中電灯の光が木々の間を揺れ、足元の石ころがゴロゴロと音を立てる。
タケシは無言で前を歩き、時折振り返ってはニヤリと笑う。
その笑顔が、なぜか俺の背筋を冷たくさせた。
30分ほど登っただろうか、鬱蒼とした木々の間に、苔むした石段が見えてきた。
その先に、傾いた鳥居と、屋根に穴が開いた小さな社が佇んでいる。
社はまるで時間が止まったかのように静かで、どこか不気味な空気を放っていた。
「ここだよ。ほら、見てみろ」
タケシが指差したのは、社の裏手にある小さな石碑だった。
苔と汚れでほとんど読めないが、かすかに「封」と刻まれているのがわかる。
俺が近づこうとすると、タケシが急に俺の腕を掴んだ。
「触るな。…まだだ」
その声は、いつもの軽いタケシとは別人のように低く、震えていた。
俺は何かおかしいと感じながらも、好奇心が勝ってしまった。
「何だよ、ビビってんのか?」と笑いながら石碑に手を伸ばした瞬間、背後から冷たい風が吹き抜けた。
「……やめろ」
ハッキリと聞こえた。
女の声だった。
だが、周りには誰もいない。
タケシの顔が青ざめ、俺も一瞬で全身が凍りついた。
懐中電灯の光がチラチラと揺れ、まるで何かに反応しているかのようだ。
「タケシ、帰ろうぜ…」
俺がそう言った瞬間、社の屋根からバキッと大きな音が響いた。
見上げると、穴の開いた屋根の隙間から、黒い影がスーッと動くのが見えた。
影は人間の形をしていたが、頭が異様に長く、腕が不自然に垂れ下がっている。
その影が、ゆっくりとこちらを見下ろしている気がした。
「見ちゃダメ!」
タケシが叫び、俺を無理やり引っ張って走り出した。
石段を転がるように下り、木の枝に服が引っかかりながら、ただただ必死に逃げた。
背後からは、ガサガサと何かが追いかけてくる音。
いや、音だけじゃない。
首筋に冷たい息がかかるような感覚が、何度も何度も繰り返された。
ようやく山を下り、村の明かりが見えた時、俺たちは地面にへたり込んだ。
タケシは震えながら、「あそこ…やっぱりヤバかったんだ…」と呟いた。
彼の話によると、数日前、猟師の親父さんが山でその社近くで妙なものを見たらしい。
「黒い女が、木の間を這うように動いてた」と。
その話を聞いて、タケシは興味本位で社に行ってみようと思い立ったのだという。
その夜、俺は家に帰っても眠れなかった。
窓の外から、時折カサカサと音が聞こえる気がして、カーテンを開けることすらできなかった。
翌日、タケシに連絡したが、彼は「もう二度とあの話はすんな」とだけ言って電話を切った。
数週間後、村で奇妙な噂が流れ始めた。
裏山で、夜な夜な女の声が聞こえるというのだ。
しかも、その声は決まって「封を開けるな」と繰り返しているらしい。
俺はあの石碑のことを思い出し、背筋が凍った。
それからしばらくして、タケシが突然村から姿を消した。
彼の家に行くと、部屋は荒れ放題で、壁に「見つかった」と殴り書きされた紙が貼られていた。
誰もタケシの行方を知らない。
ただ、村の古老がこう呟いた。
「あの社は、昔、村に災いをもたらしたものを封じるために建てられた。触れた者は、必ず連れていかれる」
今も、俺はあの夜のことを夢に見る。
黒い影が、俺の名前を呼びながら、ゆっくりと近づいてくる。
そして、耳元で囁くのだ。
「次はお前だ」と。
最近、家の周りで夜になるとカサカサと音がする。
窓の外を覗く勇気はない。
だが、昨夜、ふと目を覚ますと、枕元に小さな石が置かれていた。
その石には、かすかに「封」と刻まれていた。
俺は今、誰かにこの話を聞いてほしくて、こうして書き記している。
だが、もしこの話を最後まで読んだあなたが、夜にカサカサと音を聞いたら…
どうか、決して振り返らないでくれ。