数年前、山形県の山間部にひっそりと佇む小さな集落に、俺は引っ越してきた。都会の喧騒に疲れ、自然に囲まれた静かな暮らしを求めての移住だった。集落は古い家屋が点在し、住民は皆、親しげだがどこか遠慮がちな雰囲気を漂わせていた。俺が借りた家は、集落の外れにある古い木造の一軒家だった。築百年は軽く超えるその家は、軋む床と煤けた柱が歴史を物語っていた。特に目を引いたのは、裏庭に続く古い蔵。苔むした石垣に囲まれ、錆びた鉄の扉が不気味な存在感を放っていた。
最初は、蔵のことなど気にも留めていなかった。家賃が安く、静かな環境に満足していたからだ。しかし、引っ越して数日後の夜、奇妙なことが起こり始めた。深夜、寝室の窓の外から、かすかな呻き声のような音が聞こえてきたのだ。最初は風の音か、動物の鳴き声かと思った。だが、その音はあまりにも人間の声に似ていた。低く、苦しげで、まるで誰かが助けを求めているような響きだった。
翌朝、俺は裏庭に出て蔵の周りを調べてみた。扉は固く閉ざされ、錆びた南京錠がかけられていた。鍵穴からは冷たい風が漏れ、まるで蔵の内部が生きているかのように感じられた。気味が悪くなり、俺は早々に家に戻った。その夜もまた、呻き声が聞こえた。今度ははっきりと、蔵の方向からだった。恐怖と好奇心が交錯し、懐中電灯を手に裏庭へ向かった。蔵の扉の前で立ち尽くすと、呻き声は一層大きく、まるで俺を呼んでいるかのようだった。
集落の古老に相談してみると、彼は顔を曇らせ、蔵には近づかない方がいいと忠告した。詳しい話は避けたが、昔、その蔵で「何か」が起こったらしい。古老の目は恐怖と後悔に揺れていた。俺は半信半疑だったが、呻き声は夜ごとに激しさを増し、睡眠すらままならなくなった。ある晩、ついに我慢の限界を迎えた俺は、蔵の扉を開ける決心をした。集落の誰かが持っていた古い鍵を借り、深夜、懐中電灯とバールを手に蔵に向かった。
錆びた南京錠は意外にも簡単に外れた。重い鉄の扉を押し開けると、冷たく湿った空気が顔を撫で、鼻をつくカビ臭さが広がった。懐中電灯の光で中を照らすと、蔵の内部は予想以上に広く、埃まみれの木箱や古い農具が乱雑に積まれていた。奥に進むにつれ、呻き声ははっきりと耳に届いた。それは、もはや声というより、複数の人間が同時に苦しむような、異様な響きだった。光を頼りに奥へ進むと、床に奇妙な模様が描かれているのに気づいた。赤黒い染みのようなそれは、まるで血で描かれた呪術的な紋様のようだった。
突然、背後で扉が軋む音がした。振り返ると、誰もいない。だが、懐中電灯の光が揺れ、影が不自然に蠢いている気がした。恐怖が全身を支配したが、好奇心がそれを上回った。模様の中心に近づくと、床に小さな木の蓋があるのに気づいた。震える手で蓋を持ち上げると、暗闇の中に続く石段が現れた。呻き声はその奥から響いてくる。意を決して石段を下り始めたが、足元が冷たく、まるで氷の上を歩いているようだった。
地下室は狭く、壁には無数の爪痕が刻まれていた。まるで何かが必死に脱出しようとした痕跡のようだ。部屋の中央には、壊れた木製の椅子と、錆びた鎖が転がっていた。呻き声はここから発せられている。だが、誰もいない。声は空気そのものから響いているようだった。突然、懐中電灯がチカチカと点滅し、暗闇が迫ってきた。その瞬間、耳元で囁くような声が聞こえた。「見つけた…」
次の瞬間、俺は気を失った。目が覚めたとき、俺は蔵の外、裏庭の地面に倒れていた。懐中電灯は壊れ、鍵はなくなっていた。蔵の扉は再び固く閉ざされ、まるで何もなかったかのように静まり返っていた。それ以来、呻き声は聞こえなくなったが、俺の心には拭えない恐怖が刻み込まれた。集落の住民たちは、俺が蔵に入ったことを知ると、距離を置くようになった。彼らの目には、俺が「何か」を連れ出してしまったかのような怯えが見えた。
数ヶ月後、俺はその家を引き払った。だが、蔵の記憶は今も鮮明に残っている。山形の山奥で、俺が見たものは何だったのか。呻き声の主は何だったのか。答えはわからない。だが、時折、静かな夜に、遠くからあの声が聞こえる気がして、背筋が凍るのだ。
今、こうしてこの話を書いていると、窓の外からかすかな音が聞こえる。風の音か、それとも…。俺は振り返る勇気がない。