明治の松山、夏の盛り。城下町の外れに、商家の次男坊である少年が暮らしていた。名は省くが、歳は十四。好奇心旺盛で、近隣の子供たちを従えては裏山や川辺を探検するのが日課だった。少年の家は裕福で、広い屋敷の裏庭には古い井戸があった。石組みの井戸は苔むし、昼なお暗いその口は、子供たちの間では「覗くと何かが見える」と囁かれていた。
井戸の噂は、少年の祖父が語った話に由来する。祖父曰く、井戸は屋敷が建つ前からそこにあり、かつては村の共有の水源だった。だが、ある夏、若い娘が井戸に身を投げ、以来、水面には時折、娘の顔が映るのだという。「決して夜に覗いてはいけない」と祖父は言い、少年はそれをただの昔話と笑っていた。
ある日、少年は仲間たちと肝試しを企てた。夜、提灯を手に裏庭に集まり、井戸の縁に並んだ。子供たちは互いに囃し立て、怖がるふりをしながらも、どこか本気で怯えていた。少年は一番に井戸を覗き込み、暗い水面を見つめた。提灯の光が揺れ、水面に少年の顔が映る。だが、その奥に、もう一つの顔が浮かんだ気がした。白い肌、長い黒髪、目だけが異様に大きく、じっと少年を見上げている。
「何かいる!」少年は叫び、仲間たちは悲鳴を上げて逃げ出した。少年も後を追い、屋敷に駆け込んだ。だが、仲間の一人が「あの顔、笑ってたぞ」と震えながら言った言葉が、少年の胸に突き刺さった。その夜、少年は寝付けず、布団の中で井戸の顔を思い出した。笑っていた? いや、ただ見つめていただけだ。そう自分に言い聞かせたが、背筋に冷たいものが走った。
翌日、少年は井戸に近づけなかった。昼間でも井戸の周りは妙に静かで、鳥の声すら聞こえない。だが、好奇心は恐怖を上回った。少年は一人、井戸の縁に立ち、再び水面を覗いた。昼の光の下、水は澄んで底まで見えた。だが、底に何か白いものが揺れている。布切れか、髪の毛か。少年は石を投げ込んだ。波紋が広がり、白いものは消えた。安心した少年は、井戸を後にした。
その夜、少年は奇妙な夢を見た。井戸の底に立ち、冷たい水に浸かっている。見上げると、井戸の縁に誰かが立っている。女だ。長い髪が顔を覆い、目だけが覗いている。女はゆっくりと井戸に降りてくる。少年は逃げようとしたが、足が動かない。女の手が少年の肩に触れた瞬間、目が覚めた。部屋は暗く、汗で着物が濡れていた。だが、肩に冷たい感触が残っている。少年は恐る恐る肩を見た。そこには、濡れた手形があった。
翌朝、少年は祖父に夢の話をした。祖父の顔は青ざめ、「井戸に近づくな」とだけ言った。だが、少年の好奇心は収まらなかった。昼間、少年は再び井戸に向かった。縁に立つと、水面に自分の顔が映る。だが、その横に、もう一つの顔が現れた。女の顔だ。今度ははっきりと笑っている。少年は後ずさり、転びそうになった。その時、井戸の奥から水音が聞こえた。ゴボゴボという、誰かが水をかき分ける音。少年は走って屋敷に戻った。
その夜、少年は再び夢を見た。今度は井戸の縁に自分が立っている。女が水面から這い出し、少年の手を掴む。冷たい手が少年を引きずり、井戸の底へ。少年は水の中で叫んだが、声は出ない。目を開けると、女の顔が目の前にあった。笑いながら、こう囁いた。「お前もここにいるべきだ」
少年は叫び声を上げて目を覚ました。だが、部屋ではない。井戸の底だった。冷たい水が胸まで浸かり、頭上には丸い空が見える。少年は必死に叫んだが、声は井戸の壁に吸い込まれた。やがて、水面が揺れ、女の顔が現れた。少年の手を掴み、ゆっくりと水の底へ引きずり込む。少年の意識はそこで途切れた。
翌朝、少年の姿は屋敷から消えていた。家族は井戸を調べたが、何も見つからなかった。水面は静かで、ただ底の石が光っていた。以来、井戸は封じられ、屋敷の者たちは二度と近づかなかった。だが、夜になると、井戸の辺りで水音が響くという。ゴボゴボと、誰かが水をかき分ける音。そして、時折、少年の叫び声が聞こえるとも。
松山の町では、今もその井戸の話を語る者たちがいる。古い屋敷の裏庭、苔むした石の井戸。覗けば、自分の顔の隣に、もう一つの顔が映る。笑いながら、こう囁くのだ。「お前もここにいるべきだ」と。