北海道の冬は、息を呑むほど冷たく、夜はまるで世界が凍りつくかのようだった。今から10年ほど前、2015年の冬、私と友人たちは、大学の冬休みを利用して、道東の山奥にある小さなロッジに泊まりに行く計画を立てた。メンバーは私を含めて4人。運転手のケン、いつも明るいムードメーカーのユウキ、物静かで読書好きなミホ、そして私だ。ロッジはケンの親戚が管理する古い施設で、格安で借りられるという話だった。都会の喧騒を離れ、雪に閉ざされた静かな場所で過ごすのは、たまらなく魅力的だった。
ロッジに到着したのは、夕暮れ時だった。雪がしんしんと降り積もる中、木造のロッジはまるで絵本から飛び出したような佇まいだったが、どこか薄暗く、窓ガラスには霜がびっしりと張り付いていた。ケンが鍵を開け、暖炉に火を入れると、ようやく室内に温もりが戻ってきた。私たちは荷物を解き、持参した食材で鍋を作り、笑いながら食事を楽しんだ。外はすでに真っ暗で、窓の向こうには雪と闇しか見えなかった。
その夜、ミホがふと言った。「ねえ、このロッジ、なんか変な感じしない?」
彼女は本を手に持ったまま、暖炉の火を見つめていた。ユウキが笑いながら「ミホ、ホラー小説読みすぎだろ!」とからかったが、ミホは真剣な顔で続けた。「さっき、窓の外で何か動いた気がしたの。雪の反射でよく見えなかったけど……人影みたいなもの。」
私たちは一瞬黙り込んだが、ケンが「鹿か何かだろ。この辺は野生動物だらけだし」と笑って話を打ち切った。それでも、ミホの言葉が頭に残り、私は何となく窓の方を避けるようにしていた。
深夜、トイレに起きた私が廊下に出ると、妙な音が耳に飛び込んできた。カタカタ、という小さな音。まるで誰かが窓を爪で引っ掻いているようだった。音のする方へ目を向けると、リビングの大きな窓に、確かに何かが映っている。雪の白さに混じって、ぼんやりとした影が揺れていた。私は息を呑み、動けなくなった。影は一瞬で消えたが、心臓はバクバクと鳴り続けていた。怖くてリビングには近づけず、急いで部屋に戻った。
翌朝、朝食の準備をしながらその話をすると、ユウキが「マジかよ、めっちゃ怖えじゃん!」と興奮気味に言ったが、ケンは「風で木の枝が窓に当たったんだろ」と冷静だった。ミホだけは黙って聞いていたが、彼女の顔は明らかに青ざめていた。その日、私たちは近くの湖までスノーシューを履いて散策に出かけた。雪に覆われた森は静かで美しかったが、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。木々の間から、時折、視線を感じるような気がした。
夕方、ロッジに戻る途中、ユウキがふざけて雪玉を投げ合っていたとき、突然、彼が叫んだ。「おい、あれ何!?」
彼が指さす先、森の奥に、確かに人影のようなものが立っていた。黒いシルエットで、雪の中に浮かぶように揺れている。私たちは凍りついたように動けなかった。ケンが「誰かいるのか!?」と叫んだ瞬間、影はスッと消えた。まるで雪に溶けるように。「……何だったんだ、あれ」とユウキが震える声で呟いた。ミホは「帰ろう、早く」と怯えた声で言った。
ロッジに戻った後も、誰もが落ち着かない様子だった。夜が深まるにつれ、風が強くなり、窓がガタガタと鳴り始めた。暖炉の火は弱まり、部屋は冷え込んでいた。その時、ミホが突然立ち上がり、「もう我慢できない!」と叫んだ。「このロッジ、おかしいよ! さっきから、誰かが私の名前を呼んでる気がするの!」
彼女の目は涙で潤んでいた。私たちは驚いて彼女をなだめたが、ミホは「外から聞こえるの。女の声で、ミホ、ミホって」と震えながら言った。ユウキが「落ち着けよ、幻聴だろ」と言うと、ミホは「幻聴じゃない! あなたたちも聞こえるはずよ!」と叫んだ。
その瞬間、窓の外から、確かに声が聞こえた。「ミホ……ミホ……」
低く、掠れた女の声。私たちは全員、息を呑んだ。ケンが立ち上がり、懐中電灯を手に窓に近づいた。「誰だ!?」と叫んだが、返事はない。外は雪が吹雪のように舞い、何も見えない。ユウキが「やばい、やばいよ、これ」と呟きながら後ずさりした。私は恐怖で足がすくんでいた。
突然、ドン! と窓に何かがぶつかる音がした。ガラスにヒビが入り、雪と一緒に黒い影が一瞬見えた。私たちは悲鳴を上げ、部屋の奥に逃げ込んだ。ケンが「車だ! 車で逃げるぞ!」と叫び、私たちは荷物を掴んで玄関に走った。外に出ると、吹雪がさらに強くなり、視界はほぼゼロだった。車に乗り込む瞬間、ミホが「あそこ!」と叫んだ。ロッジの裏手、雪の中に、黒い人影が立っていた。顔は見えないが、長い髪が風に揺れていた。
ケンがエンジンをかけ、車を急発進させた。雪道を滑りながら、なんとか山を下り、近くの町まで逃げ切った。警察に連絡したが、吹雪でロッジまで捜査に行くのは難しいと言われた。後日、ケンの親戚に話を聞くと、そのロッジは数十年前、若い女性が行方不明になった場所だったという。彼女は雪山で遭難し、その後、遺体も見つからなかった。地元では、彼女の霊が彷徨っているという噂があったらしい。
私たちは二度とそのロッジには近づかなかった。だが、今でも、雪の降る夜には、あの掠れた声が耳に蘇る。「ミホ……ミホ……」
あの声は、ミホを呼んでいたのか。それとも、私たち全員を、凍てつく闇へと誘っていたのか。