今から数十年前、宮城県の山奥に、名もない小さな村があった。村の外れには、黒々とした水面が不気味に揺れる沼が広がり、誰も近づかない場所として知られていた。地元の古老たちは、沼には古い神が住んでいると囁き、夜にそこを通る者を決して許さないと言い伝えていた。だが、若者たちはそんな話を笑いものにしていた。
その村に、都会から移り住んできた若い男がいた。名前は誰も知らない。ただ、彼が村に現れた日から、どこか落ち着かない空気が漂い始めた。彼は無口で、いつも一人で沼の近くを歩いていた。村人たちは彼を奇妙な目で見ていたが、誰も声をかけようとはしなかった。
ある夏の夜、村の若者たちが酒を飲みながら、いつものように沼の伝説を馬鹿にしていた。「あの沼に神なんているわけねえよ。きっと昔の誰かが溺れただけだろ」と一人が笑い、他の者も調子を合わせて囃し立てた。その場にいた一人の若者、村一番の乱暴者として知られる男が、突然立ち上がった。「じゃあ、俺が行って確かめてやるよ。沼の底まで見てきて、神なんていないって証明してやる!」
仲間たちは半信半疑だったが、酒の勢いもあって彼を止めなかった。男は懐中電灯を手に、夜の闇に消えていった。沼までは村から歩いて十分ほど。すぐに戻ってくるだろうと、誰もがそう思っていた。
だが、男は戻らなかった。
翌朝、村人たちが沼のほとりに集まったとき、そこには男の懐中電灯だけが、泥に半分埋もれて転がっていた。足跡は沼の縁まで続いていたが、水面に消えていた。まるで何かに引きずり込まれたかのように。村人たちは恐れおののき、古老の言葉を思い出した。「沼は夜に人を呼ぶ。決して近づいてはならん」と。
それから数日後、村に異変が起こり始めた。夜になると、どこからともなく囁き声が聞こえてくるのだ。最初は風の音だと誰もが思った。だが、声は次第にハッキリと聞こえるようになった。「来い……来い……」と、低く、粘りつくような声が、村の家々の隙間を這うように響いた。声は特に、沼の近くに住む者たちに強く聞こえた。ある老婆は、夜中に窓の外を見たとき、沼の方向にぼんやりと光る人影を見たと震えながら語った。
村人たちの恐怖は頂点に達したとき、都会から来たあの男が再び姿を現した。だが、彼は以前とはどこか違っていた。目は虚ろで、肌は不自然に青白く、服はびしょ濡れのままだった。村人たちが声をかけても、彼はただ沼の方を見つめ、口元に薄い笑みを浮かべていた。ある夜、男は村の広場に立ち、突然叫び始めた。「沼が呼んでいる! 皆、行かなければならない!」
その言葉に、村人たちは凍りついた。男の声は人間のものとは思えないほど低く、まるで沼の底から響いてくるようだった。次の瞬間、男は走り出し、沼へと向かった。数人の村人が追いかけたが、彼が沼の水面に足を踏み入れた瞬間、まるで水に吸い込まれるように姿を消した。追いかけた者たちは、沼の縁で立ち尽くし、水面を見つめた。そこには、何かが蠢くような波紋が広がっていた。
その夜から、村はさらに異常な状態に陥った。囁き声は毎夜のように響き、村人たちは眠れなくなった。ある者は、夜中に突然家を飛び出し、沼に向かって走り出す姿が見られた。彼らは皆、虚ろな目で「行かなければ」と呟きながら、沼に消えていった。村の人口は日に日に減っていった。
最後に村に残ったのは、一人の少女だった。彼女は両親を沼に奪われ、恐怖に震えながらも、村の神社に身を隠していた。ある夜、囁き声が彼女の耳にも届いた。「来い……お前も来い……」 声は甘く、誘うようだった。少女は必死に耳を塞ぎ、神社のお札を握りしめた。だが、声は止まなかった。次第に、彼女の心は揺らぎ始めた。「もしかしたら、両親はまだ生きているのかもしれない。沼に行けば、会えるかもしれない……」
少女はふらふらと立ち上がり、神社を出た。夜の闇の中、沼の水面は月光を映して不気味に輝いていた。彼女が沼の縁に立ったとき、水面に映る自分の姿が、どこか歪んでいることに気づいた。まるで、別の誰かがそこにいるかのように。次の瞬間、水面から無数の手が伸び、彼女の足を掴んだ。少女は悲鳴を上げたが、声は闇に呑み込まれた。彼女の体はゆっくりと沼に引きずり込まれ、静寂が戻った。
それから、村は完全に無人となった。沼の周辺は、まるで時間が止まったかのように静まり返り、誰も近づかなくなった。だが、時折、旅人がその場所を通ると、遠くから囁き声が聞こえるという。「来い……来い……」と、沼の底から響く声が、夜の闇に溶けていく。
今でも、宮城県の山奥には、そんな沼が実在すると言われている。地図には載っていない、誰も知らない場所。だが、もしあなたが夜道で、どこからともなく囁き声を聞いたなら、決して振り返ってはいけない。沼があなたを呼んでいるのかもしれないから。