今から30年ほど前、高知県の山深い村に、都会から移り住んだ若い夫婦がいた。夫は教師、妻は看護師。二人とも新しい生活に胸を膨らませ、村の古びた一軒家に落ち着いた。家は山の斜面に建ち、裏手には鬱蒼とした杉林が広がっていた。村人たちは親切だったが、どこか遠慮がちで、夜になると皆、早々に戸を閉ざした。
ある秋の夜、夫は学校の書類を整理するため遅くまで残っていた。妻は一人、家で夕飯の支度をしながらラジオを聴いていた。時計の針が9時を回った頃、ふと外から奇妙な音が聞こえてきた。カサカサと、枯れ葉を踏むような音だ。最初は風か動物かと思ったが、音は次第に近づき、家の裏手でピタリと止まった。
妻はラジオの音量を下げ、耳を澄ませた。静寂が重くのしかかる中、かすかな囁き声のようなものが聞こえた。人の声とも獣の唸りともつかぬ、ぞっとするような音。彼女は恐る恐る窓に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。そこには、闇に浮かぶ青白い光が揺れていた。鬼火だ。村の古老が話していた、妖怪の灯り。
光はゆらゆらと家の周りを漂い、まるで何かを探しているようだった。妻の心臓は早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝った。すると、突然、家の戸を叩く音が響いた。ドン、ドン、ドン。重く、規則的な音。彼女は息を殺し、動けなかった。叩く音は数分続き、やがて静かになった。鬼火も消え、闇が再び静寂を取り戻した。
夫が帰宅したのは深夜近く。妻は震えながら一部始終を話したが、夫は疲れていたこともあり、「山の動物だろう」と軽く笑って済ませた。しかし、その夜から奇妙な出来事が続いた。夜中に家の周りで足音が聞こえたり、窓の外に人影のようなものがちらついたり。妻は次第に眠れなくなり、夫も疲弊していくのが目に見えてわかった。
ある晩、夫婦は村の古老に相談しに行った。古老は真剣な顔でこう告げた。「それは『山のもの』だ。昔、この辺りで祀られていた古い神様の眷属だよ。人間がその領域を侵すと、警告のために現れる。鬼火はそいつの目だ。決して目を合わせちゃいかん」。夫婦は半信半疑だったが、古老の言葉に従い、家に塩を撒き、護符を貼った。
それでも怪異は止まなかった。ある嵐の夜、夫が学校から帰る途中、山道で異様なものを見た。道の先に、ぼんやりとした人影が立っていた。背が高く、異様に細長いシルエット。顔は見えず、ただ青白い光がその周りを漂っていた。夫は恐怖で足がすくんだが、意を決して近づこうとした瞬間、人影はスッと消え、代わりに強烈な風が彼を襲った。家にたどり着いた時、彼の顔は真っ青で、服は泥だらけだった。
妻は夫の様子を見て、ついに決心した。「ここにはいられない。出て行こう」。夫も反対しなかった。次の週末、荷物をまとめ、村を後にしようとしたその夜、最後の恐怖が二人を襲った。深夜、家の周りで複数の足音が響き始めた。カサカサ、ドスドス。まるで何十もの足が一斉に動いているようだった。窓の外には無数の鬼火が浮かび、家の周りをぐるぐると回っている。夫婦は抱き合い、ただ祈ることしかできなかった。
やがて、足音は遠ざかり、鬼火も一つずつ消えていった。朝が来るまで、夫婦は一睡もできなかった。翌朝、急いで荷物を車に積み、村を後にした。二度とその家には戻らなかった。後日、村の知人から聞いた話では、あの家はすぐに新しい住人が入ったが、誰も長くは住めず、数年後には空き家になったという。
今でも、あの山奥の家に近づく者は少ない。地元の者たちは、夜になると鬼火が浮かび、足音が響くと囁く。夫婦が体験したものは、果たして古い神の眷属だったのか、それとも別の何かだったのか。誰も知らない。ただ一つ確かなのは、あの夜、夫婦が感じた恐怖が、決して忘れられるものではなかったということだ。
村を離れた夫婦は、都会に戻り、静かな生活を取り戻した。だが、妻は時折、夜中に目を開け、遠くでカサカサという音を聞くことがあるという。それは、遠い高知の山奥から追いかけてくる、決して消えない足音なのかもしれない。