30年前の沖縄、夏の夜。私は大学で民俗学を専攻する学生だった。夏休みを利用して、沖縄の離島にフィールドワークに訪れていた。目的は、島に伝わる古い言い伝えや怪談を収集すること。地元の人々は温かく迎えてくれたが、どこか遠慮がちな態度だった。特に、島の北端にある岩場について尋ねると、皆一様に口を閉ざした。
「そこには行かない方がいいよ。夜になると変なことが起こるから」
あるおばあさんが、渋々そんなことを教えてくれた。彼女の目は、遠くを見つめるように揺れていた。私は好奇心を抑えきれず、岩場についてもっと知りたいと思った。だが、具体的な話は誰もしてくれなかった。結局、直接その場所を訪れることにした。危険かもしれないが、学問のためだ、と自分を納得させた。
その夜、満月の光が海を銀色に照らす中、私は懐中電灯とノートを手に岩場へと向かった。島の北端は、切り立った崖と黒い岩が連なる荒々しい場所だった。波が岩に打ち寄せる音が、まるで遠くの太鼓のように響く。空気は湿り気を帯び、どこか生臭い匂いが漂っていた。
岩場に着くと、私は周囲を見回した。誰もいない。静かすぎるくらいだ。月明かりが岩の表面を照らし、奇妙な影を作り出していた。私はノートを開き、言い伝えについてメモを取ろうとした。だが、その時、どこからか低い声が聞こえてきた。
「…帰れ…」
声は風に混じり、はっきりと聞き取れなかった。私は耳を澄ませたが、波の音しか聞こえない。幻聴か? 緊張しているせいだ、と思い直し、メモを続けた。だが、再び声が響いた。今度ははっきりと、男の声だった。
「ここにいるな…帰れ…」
背筋が凍った。振り返っても誰もいない。懐中電灯で辺りを照らしたが、岩と海しか見えない。心臓が早鐘のように鳴り始めた。私は声のする方向を見定めようとしたが、声はまるで岩場全体から響いているようだった。恐怖がじわじわと這い上がってくる。
「誰だ! 出てこい!」
私は叫んだ。だが、返事はない。代わりに、波の音に混じって、別の音が聞こえてきた。カタカタ…カタカタ…。何かが岩の表面を這うような音だ。私は懐中電灯をその方向に振り向けた。すると、岩の隙間から、黒い影が動くのが見えた。人間の形ではなかった。細長く、まるで巨大な虫のようだった。
「うわっ!」
思わず後ずさりした瞬間、足が滑り、岩の表面に尻餅をついた。懐中電灯が手から落ち、コロコロと転がって海に落ちてしまった。暗闇が一気に私を包み込む。月明かりだけでは足元もおぼつかない。カタカタという音が近づいてくる。私は這うようにして岩場を離れようとした。
だが、その時、背後から冷たい手が私の肩をつかんだ。凍りつくような冷たさだった。私は悲鳴を上げ、振り払おうともがいた。だが、その手はまるで鉄のように固く、私を離さない。
「お前も…ここに…」
声が耳元で囁いた。男の声だったが、どこか人間離れした響きがあった。私は必死で振り向いた。そこには、青白い顔の男が立っていた。目は窪み、口元は不自然に裂けていた。月明かりに照らされたその顔は、まるで死人のようだった。
「離せ!」
私は叫びながら、男の手を振り払った。どうやって逃げ出したのか、記憶は曖昧だ。ただ、必死で岩場を駆け下り、村まで戻ったことだけは覚えている。村に着いた時、服は泥と海水でぐしょ濡れだった。手にしていたノートも、どこかで落としてしまっていた。
翌朝、村の古老に昨夜のことを話した。彼は長い間黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「あの岩場はな、昔、島に流れ着いた者たちが住み着いた場所だ。だが、ある時、島民と争いが起きて、皆殺しにされた。以来、夜になると彼らの声が響く。怒りと悲しみが、あの場所に縛り付けられているんだ」
私はぞっとした。古老は続けた。
「お前が感じた冷たい手、あれは彼らの手だ。生きている者を引きずり込もうとする。運が良かったな、逃げられたんだから」
その言葉を聞いて、私は背筋が凍る思いだった。あの夜、もし振り払えていなかったら? 想像するだけで体が震えた。私はその日のうちに島を離れた。二度とあの岩場には近づかないと心に誓って。
だが、今でもあの夜のことは忘れられない。月夜の岩場、波の音に混じるカタカタという音、そして耳元で囁く声。あの冷たい手の感触は、今でも時折、夢の中で蘇る。まるで、私をまだあの岩場に引き戻そうとしているかのように。
後日談がある。あの島を離れて数年後、別の研究者が同じ岩場で調査中に失踪したという。地元の人々は「あの場所の呪いだ」と囁き合ったそうだ。私はその話を聞いて、改めてあの夜の恐怖を思い出した。そして、決してあの島には戻らないと、心の底から誓った。