鬼哭の山里

オカルトホラー

今から数十年前、岡山県の山深い里に、静かな集落があった。そこは、昼間は鳥のさえずりと川のせせらぎが響き合い、夜になると星空が広がる、まるで時間が止まったような場所だった。だが、地元の人々は、ある山の奥にある古い祠の話を口にすることはほとんどなかった。祠の周囲には、決して近づいてはいけないという不文律があったのだ。

集落に住む少年、健太は、好奇心旺盛な12歳だった。夏休みのある日、健太は友達の陽介と一緒に、村の外れにある森へ冒険に出かけた。二人は、祠の噂を耳にしていたが、怖いもの見たさで、わざとその話題をからかい合っていた。「あの祠、夜になると鬼の声が聞こえるってさ」「バカ、んなわけないだろ!」と笑いながら、森の奥へと足を踏み入れた。

森は昼間でも薄暗く、木々の間を縫うように伸びる獣道を進むうち、二人の笑い声は次第に小さくなった。陽介が「なんか、変な感じしない?」とつぶやいたとき、健太も同じ違和感を覚えていた。空気が重く、まるで誰かに見られているような感覚がしたのだ。だが、引き返すには遅すぎた。獣道の先に、苔むした石の祠が姿を現した。

祠は思ったよりも小さく、風化した鳥居が傾いていた。屋根には蔦が絡まり、地面には落ち葉が積もっている。だが、その古びた外見とは裏腹に、祠の周囲には異様な静けさが漂っていた。鳥の声も、風の音も、何も聞こえない。健太は背筋に冷たいものが走るのを感じたが、陽介を怖がらせようと、わざと明るい声で言った。「ほら、なんにもないじゃん。鬼なんているわけないよ!」

陽介は笑って応じたが、その声にはどこか無理があった。すると、突然、祠の奥から低い唸り声のような音が聞こえてきた。ゴオオ……と、地の底から響くような音だった。二人は凍りついた。陽介が「な、なに!?」と叫び、健太の手を握りしめた。音は一瞬で止んだが、今度は祠の裏から、ガサガサと何かが動く音が聞こえてきた。まるで、誰かが這うように近づいてくる音だった。

健太は陽介の手を引き、逃げようとした。だが、足がまるで地面に縫い付けられたように動かない。恐怖が二人を飲み込んでいた。そのとき、祠の裏から、ゆっくりと影が現れた。それは人間の形をしていたが、どこか歪んでいた。頭が不自然に大きく、肩が異様に窄まり、腕が地面を引きずるほど長かった。影はゆらゆらと揺れながら、二人に近づいてきた。

「ケンタ……やばい、逃げろ!」陽介が叫んだ瞬間、影が急に動きを止めた。そして、ゆっくりと顔を上げた。その顔には目がなかった。鼻も口もなかった。ただ、黒い穴がポッカリと開いているだけだった。健太は悲鳴を上げ、陽介の手を振りほどいて走り出した。陽介も必死に後を追った。背後からは、ガサガサという音が追いかけてくる。いや、それだけではない。低いうめき声が、まるで耳元で囁くように聞こえてきた。

二人は森を抜け、集落の入り口まで全力で走った。振り返る勇気はなかった。集落に戻ると、健太の祖母が心配そうな顔で二人を迎えた。「どこ行っとったんじゃ! あんたら、祠の近くに行ったろ!」祖母の声は震えていた。健太は泣きながら、祠で見たものを話した。祖母は顔を青ざめさせ、「あそこには、決して近づかんようにな」とだけ言って、それ以上は何も語らなかった。

その夜、健太は高熱を出して寝込んだ。うなされながら見た夢の中で、あの目のない影がベッドのそばに立っていた。黒い穴が蠢き、まるで何かを吸い込むように健太を見つめていた。健太は叫び声を上げて目を覚ましたが、部屋には誰もいなかった。ただ、窓の外から、かすかにガサガサという音が聞こえた気がした。

翌日、陽介の家を訪ねた健太は、衝撃の事実を知った。陽介が昨夜から行方不明だったのだ。村人たちは総出で陽介を探したが、森の奥、祠の近くで彼の靴だけが見つかった。靴の周囲には、まるで何かが這ったような跡が残っていた。村の古老は「あの祠には、昔、鬼を封じたんじゃ」とつぶやいたが、詳しい話は誰も知らなかった。

それから数週間、健太は毎夜のように悪夢にうなされた。夢の中で、陽介の声が聞こえた。「ケンタ、助けて……ここ、暗いんだ……」その声は、まるで祠の奥から響いてくるようだった。健太は怖くて祖母に相談したが、祖母はただ「忘れなさい」と言うだけだった。だが、健太には忘れることなどできなかった。

ある晩、健太は我慢できず、懐中電灯を持って家を抜け出した。陽介を助けたい一心で、祠へと向かったのだ。森は真っ暗で、懐中電灯の光がかろうじて道を照らした。祠に近づくにつれ、あの重い空気が再び健太を包んだ。祠の前に立ったとき、懐中電灯の光が揺れた。祠の奥で、何かが動いたのだ。

「陽介! いるの!?」健太は叫んだ。すると、祠の中から、かすれた声が返ってきた。「ケンタ……来ちゃダメ……」それは確かに陽介の声だった。だが、どこかおかしかった。声が二重に聞こえるのだ。まるで、陽介の声に別の何かが重なっているように。健太は震えながら祠に近づいた。すると、祠の奥から、あの目のない影がゆっくりと這い出てきた。

影は陽介の姿をしていた。だが、その顔は黒い穴に覆われ、口元が不自然に歪んでいた。「ケンタ……一緒に、来て……」陽介の声が、まるで歌うように響いた。健太は後ずさりしたが、背後からガサガサという音が聞こえた。振り返ると、別の影が立っていた。同じように目がなく、黒い穴が蠢いていた。健太は逃げ場を失い、ただ立ち尽くした。

その瞬間、遠くから祖母の叫び声が聞こえた。「健太! 戻りなさい!」祖母の声に我に返った健太は、影の間をすり抜け、必死に走った。背後からは、複数のうめき声が追いかけてきた。集落に戻ったとき、健太は気を失った。

目覚めたとき、健太は自宅の布団の中にいた。祖母は憔悴した顔で健太を見守っていた。「二度と、あそこには行かんよーに」とだけ言った。健太は頷いたが、心の中では陽介の声がまだ響いていた。

それから月日が流れ、健太は大人になった。だが、あの夏の出来事は決して忘れられなかった。祠の話は集落でもタブーとなり、いつしか森の奥は立ち入り禁止となった。健太は時折、陽介の靴が見つかった場所を遠くから眺めた。そこには、かすかにガサガサという音が聞こえる気がした。

今も、岡山の山奥のどこかで、あの祠はひっそりと佇んでいるという。夜になると、祠の奥から低い唸り声が響き、黒い穴を持つ影が森を彷徨う。地元の人々は、決してその話を口にしない。だが、もしあなたがあの森に迷い込んだら、ガサガサという音に耳を澄ませてみてほしい。そこには、あなたの知らない何かが、すぐそばにいるかもしれない。

タイトルとURLをコピーしました