山口県の山間にひっそりと佇む小さな町。そこには、今から20年ほど前、僕が通っていた中学校があった。学校は古びた木造の旧校舎と、比較的新しい鉄筋コンクリートの新校舎が隣り合って建っていた。旧校舎は普段使われることはなく、ただひっそりとそこに存在していた。夜になると、その薄暗い窓から何かが見ているような気がして、誰も近づこうとはしなかった。
僕が中学二年の夏、友達のKとY、そしてクラスのムードメーカーだったTと一緒に、肝試しをすることになった。夏休み前の最後の登校日、夜の学校に忍び込む計画を立てたのだ。旧校舎には「夜泣き女」の噂があった。戦時中に空襲で亡くなった女教師が、夜な夜な校舎を彷徨い、すすり泣く声が聞こえるという。誰もその姿を見た者はいなかったが、夜の旧校舎に近づくだけで背筋が寒くなると、先輩たちは口を揃えて言っていた。
「そんなのただの噂だろ。怖がってるやつがバカみたいだぜ」とTが笑いながら言った。彼の明るい声に押されるように、僕たちはその夜、校門の脇にある壊れたフェンスの隙間から敷地内に侵入した。時計は夜の11時を少し過ぎていた。月明かりが薄く、校庭をぼんやりと照らしていた。旧校舎のシルエットは、まるで巨大な獣が蹲っているように見えた。
校舎の裏口は錆びた錠が壊れていて、簡単に開いた。中に入ると、空気はひんやりと湿っていて、カビと古い木材の匂いが鼻をついた。懐中電灯の光を頼りに、僕たちは一階の廊下を進んだ。床板がギシギシと鳴るたびに、心臓が跳ね上がった。「やっぱやめようぜ…」とYが小声で言ったが、Tが「ビビるなよ! なんにもねえって!」と肩を叩いた。Kは無言で、ただ僕の後ろを歩いていた。
一階を一周しても何も起こらなかった。少し安心した僕たちは、二階へ続く階段を見つけた。階段は埃で白っぽくなり、ところどころ手すりが壊れていた。「二階に何かあるかもな」とTがニヤリと笑い、先頭に立って登り始めた。僕たちは黙ってその後をついていった。二階の廊下は一階よりも暗く、窓から差し込む月光が床に不気味な影を落としていた。教室の扉はどれも閉まっていて、ガラス窓から中を覗いても、ただの暗闇しか見えなかった。
突然、Tが立ち止まった。「お前、聞いたか?」と彼が囁いた。僕たちは耳を澄ませた。最初は何も聞こえなかったが、遠くから、かすかに、すすり泣くような音が聞こえてきた。それは女の声のようだった。「…マジかよ」とYが震える声で言った。Kは僕の腕をぎゅっと掴んだ。音は少しずつ大きくなり、廊下の奥、突き当たりの教室から聞こえてくるようだった。「行ってみようぜ」とTが言ったが、その声にはさっきまでの余裕がなかった。
僕たちは恐る恐る突き当たりの教室に近づいた。扉のガラス窓から中を覗くと、教室の中央に、ぼんやりとした白い影が見えた。それは女の形をしていた。長い髪が顔を覆い、肩を震わせて泣いているように見えた。僕たちの懐中電灯の光が当たると、影はスッと消えた。でも、泣き声は止まなかった。それどころか、教室の中から、床を這うような音が聞こえてきた。ゴソゴソ、ズルズル…まるで何か重いものが動いているようだった。
「逃げよう!」とYが叫び、僕たちは一斉に階段の方へ走った。だが、階段にたどり着く前に、背後でバン!と扉が開く音がした。振り返ると、暗闇の中で白い手が廊下に這い出していた。それは異様に長く、爪は黒く尖っていた。泣き声は叫び声に変わり、耳をつんざくような高さで響いた。僕たちは悲鳴を上げながら階段を駆け下り、裏口から校庭へ飛び出した。
校庭に出た瞬間、泣き声はピタリと止んだ。振り返っても、旧校舎の窓には何も映っていなかった。僕たちは息を切らしながら、家まで走って帰った。その夜、誰も口をきかなかった。次の日、学校で顔を合わせたとき、Tだけが妙に明るく振る舞っていた。「あれ、絶対誰かのイタズラだよな!」と笑っていたが、その目はどこか怯えているように見えた。
それから数週間後、Tが変わった。いつも明るかった彼が、急に無口になり、夜になると怯えたように家に閉じこもるようになった。ある日、Kがそっと教えてくれた。Tはあの夜、僕たちが逃げた後、一人で旧校舎に戻ったのだという。「何か忘れた」とだけ言って、誰にもついていくなと言ったらしい。それ以来、Tは夜中に「女の声が聞こえる」と怯えるようになった。しまいには、Tの家に泊まりに行ったYが、夜中にTが寝言で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返していたと話してくれた。
Tは結局、その年の冬に家族と一緒に町を離れた。どこに行ったのか、誰も知らない。旧校舎はその後、取り壊されて駐車場になった。今ではそこに立つと、ただのコンクリートの地面があるだけだ。でも、地元の人は言う。夜遅く、あの駐車場を通ると、どこからともなくすすり泣く声が聞こえることがある、と。僕自身、あれ以来、夜の学校には二度と近づいていない。あの白い手と、耳をつんざく叫び声が、今でも夢に出てくることがあるからだ。
あの夜、僕たちはただの肝試しをしたつもりだった。でも、旧校舎には何かがあった。いや、今もまだ、あそこに何かいるのかもしれない。