夜の海に消えた影

実話風

私の名前は優奈、28歳。沖縄で生まれ育ち、今は那覇市で小さなカフェを経営している。カフェの窓からは、いつも青い海が見える。観光客で賑わう夏も、静かな冬も、あの海は変わらずそこにある。でも、去年の夏、あの海で起きた出来事が、私の人生を一変させた。

その日は8月の終わり、台風が近づいていて、いつもなら賑やかなビーチもひっそりとしていた。カフェの閉店後、親友の美咲と一緒に、近くのビーチで涼もうと出かけた。美咲は私より少し年上で、沖縄の古い言い伝えや民話をよく知っている。彼女は時折、冗談めかして「この島には人間の目に見えないものがいっぱいいるよ」と言うけど、私はそんな話は半信半疑だった。

ビーチに着くと、波の音だけが響いていた。月明かりが海面に反射して、キラキラと光っている。美咲はビニールシートを広げ、持ってきたビールを飲みながら、いつものように他愛もない話をしていた。でも、なぜかその夜、彼女の声には少し緊張が混じっている気がした。

「ねえ、優奈。この辺の海、夜はあんまり来ない方がいいって、昔から言われてるよね?」

美咲が急にそんなことを言い出した。私は笑って、「何? またおばあちゃんの怖い話?」とからかった。でも、彼女は笑わなかった。代わりに、海の方をじっと見つめながら、こう続けた。

「このビーチ、昔は『カナシ浜』って呼ばれてたって知ってる? 恋人たちが海に引きずり込まれるって話があるの。昔、若いカップルが夜の海で泳いでたら、女の人が急に叫んで、波に飲まれるように消えたんだって。男の人は必死に探したけど、見つからなくて…それから、夜の海で女の人の笑い声が聞こえるって噂が広まったの。」

私はゾクッとしたけど、気を取り直して、「そんなの、ただの都市伝説でしょ」と返した。でも、美咲の目は真剣だった。「都市伝説じゃないよ。私の叔母さんが若い頃、友達とこのビーチに来た夜、変なものを見たって言ってた。海の向こうに、女の人が立ってるのが見えたけど、近づいたら消えたって。」

その話を聞いて、私は少し落ち着かない気分になった。海を見ると、月明かりが揺れて、まるで何かが見ているような気がした。「もう、怖い話やめてよ。帰ろうよ」と私が言うと、美咲は少し笑って、「まぁ、ただの昔話だよ。気にしないで」と手を振った。

でも、その夜、変なことが起きた。私たちがビーチを後にして、車に戻ろうとしたとき、背後から「クスクス」という笑い声が聞こえた。女の声だった。私は振り返ったけど、誰もいない。美咲も立ち止まって、顔をこわばらせていた。「…聞いた?」と彼女が囁く。私は頷いて、「多分、風の音だよ」と自分を納得させようとした。でも、心のどこかで、あの笑い声が普通じゃないと感じていた。

その夜、帰宅してから、私はなかなか眠れなかった。窓の外から聞こえる波の音が、いつもと違って不気味に響いた。翌朝、カフェに出勤すると、常連のおじいさんが、「昨日の夜、ビーチで何かあったかい?」と聞いてきた。私はドキッとして、「なんで?」と聞き返すと、彼は目を細めてこう言った。

「夜中、浜の方から女の声が聞こえたって、近所の人が騒いでたよ。歌ってるみたいだったって。」

私は背筋が凍る思いだった。美咲に電話してその話をすると、彼女はしばらく黙った後、「優奈、しばらくビーチには行かない方がいいよ」と言った。彼女の声は震えていた。

それから数日後、事態はさらに奇妙な方向に進んだ。カフェにやってきた観光客の若い男が、興奮した様子でこんな話を始めた。「昨日の夜、ビーチでめっちゃ変なもの見たんですよ! 海の真ん中に、女の人が立ってるみたいに見えたんです。でも、よく見たら、誰もいなくて…波が変な形になってただけかな?」

私はその話を聞いて、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。美咲にその話を伝えると、彼女はすぐにカフェにやってきた。そして、私の手を握りながら、こう言った。「優奈、あの海には何かいる。私、調べたんだけど…カナシ浜の話、もっとヤバいかもしれない。」

美咲によると、カナシ浜には古い言い伝えがあって、昔、島の若い女たちが海の神に捧げられる儀式があったという。でも、ある年、儀式を拒んだ女が海に飛び込んで自ら命を絶ち、それ以来、彼女の魂が海を彷徨い、夜に現れるようになったらしい。「それが本当なら…あのカナシ浜の女が、まだそこにいるのかもしれない」と美咲は言った。

私はそんな話を信じたくなかった。でも、その夜、カフェの閉店後に一人で片付けをしていると、突然、窓の外から「トントン」と音がした。驚いて振り返ると、ガラス越しに、黒い影が立っているのが見えた。女のシルエットだった。心臓が止まりそうになり、思わず悲鳴を上げた。次の瞬間、影は消えていた。

それからというもの、奇妙な出来事が続いた。カフェの電気が勝手に点滅したり、夜中に誰もいないはずの店内で足音が聞こえたり。ある夜、ついに我慢できなくなった私は、美咲を呼んで、二人でカナシ浜に向かった。何か答えを見つけたかった。

ビーチに着くと、月は雲に隠れ、海は真っ暗だった。波の音が不気味に響き、まるで何か大きなものが海の中で動いているような気がした。美咲が持ってきた懐中電灯で海を照らすと、遠くの波間に、確かに女の姿が見えた。白い服を着た、長い髪の女。彼女は私たちを見ているようだった。

「優奈、逃げて!」美咲が叫んだ瞬間、海から冷たい風が吹き、懐中電灯が消えた。暗闇の中で、女の笑い声が響いた。「クスクス…来て…」

私は美咲の手を握り、必死に走った。車に飛び乗り、エンジンをかけると、後部座席から「トントン」と音がした。振り返ると、誰もいない。でも、バックミラーに映る海の向こうに、あの女の姿が一瞬見えた気がした。

それ以来、私はカナシ浜には近づいていない。カフェも移転を考えている。でも、夜になると、波の音に混じって、遠くからあの笑い声が聞こえる気がする。あの女はまだそこにいる。私のことを、ずっと見ている。

今でも、沖縄の海を見るたび、胸の奥に冷たい恐怖がよみがえる。あの夜、私たちは何を見たのか。美咲は「あれは海の神の使いだった」と言うけど、私は違うと思う。あれは、ただの幽霊なんかじゃない。もっと古く、もっと深い、異世界の何かだった。

あなたがもし、沖縄のビーチを夜に訪れるなら、気をつけて。海の向こうに、女の影が見えたら、絶対に近づかないで。彼女は笑いながら、あなたを海の底に引きずり込むから。

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