砂丘に潜む妖の影

妖怪

鳥取の砂丘の縁に、ひっそりと佇む小さな集落があった。今から数十年前、夏の夜が肌を湿らせる頃、俺はまだ中学生だった。家族と共に祖父の家に帰省していたのだ。祖父の家は、集落の外れにあり、裏手には広大な砂丘が広がっていた。昼間は観光客で賑わう砂丘も、夜になると静寂に包まれ、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。

その夜、俺は従兄弟の健太と、祖父の古い物置で懐中電灯を手に探検気分で遊んでいた。物置には、埃をかぶった農具や、使い古された漁網、妙にリアルな木彫りの人形が無造作に置かれていた。健太がその人形を手に取ると、どこからか低い唸り声のような音が聞こえてきた。最初は風の音だと思ったが、物置の窓は固く閉ざされており、空気は淀んでいた。

「な、なんか変じゃね?」
健太の声が震えていた。俺も背筋に冷たいものが走ったが、怖がる自分を見せたくなくて、強がって言った。
「バーカ、ただの気のせいだろ。ほら、戻ろうぜ。」

だが、物置を出た瞬間、砂丘の方から奇妙な音が響いてきた。まるで誰かが砂を踏みしめる音に、かすれた笑い声が混じるような音だった。懐中電灯を向けても、広大な砂丘の闇は光を飲み込み、何も見えなかった。健太が俺の腕を掴み、震える声で囁いた。
「なんか…いるよ。見て、あそこ!」

彼が指した先、砂丘の頂に、ぼんやりとした人影が立っていた。いや、人影というより、人の形をした何かだった。背は異様に高く、腕が不自然に長く垂れ下がり、頭部はまるで布をかぶったように輪郭がぼやけていた。懐中電灯の光を当てると、その影はスッと消えた。だが、次の瞬間、背後から砂を踏む音が近づいてきた。

「走れ!」
俺は叫び、健太の手を引いて祖父の家に向かって全力で走った。背後では、砂を掻く音がどんどん近づいてくる。振り返る勇気はなかったが、まるで何かがすぐ後ろで息を吐いているような感覚があった。家の玄関に飛び込み、戸を閉めた瞬間、ドンッと何かが戸にぶつかる音がした。健太は泣き出し、俺も膝がガクガク震えた。

翌朝、祖父に昨夜のことを話すと、彼の顔が一瞬曇った。普段は豪快に笑う祖父が、珍しく声を潜めて言った。
「あの砂丘にはな、昔から妙なものが住んでる。『砂ノ影』って呼ばれてる妖だ。夜に砂丘をうろつく人間を追いかけて、魂を喰らうって話だ。昔、漁師の男が砂丘で姿を消したことがあってな…それ以来、夜は近づくなと言われてきた。」

祖父の話によると、砂ノ影は古くからこの地に棲む妖怪で、砂丘に迷い込んだ者を惑わし、命を奪うという。かつて、集落の者がその妖を封じるために、砂丘の奥に小さな祠を建て、供物を捧げていたが、戦後の混乱でその習慣は途絶えていた。祖父は物置にあった木彫りの人形を見せながら、こう続けた。
「これもな、昔の者が砂ノ影を鎮めるために作ったもんだ。だが、最近は誰も祀らなくなったから、妖の力が強まってるのかもしれん。」

その話を聞いてから、俺は砂丘を見るたびに背筋が冷たくなった。昼間の明るい砂丘ですら、どこか遠くで誰かに見られているような気がした。数日後、帰省を終えて町に戻る前、俺はこっそり砂丘の端にある小さな祠を見つけた。苔むした石の祠は、ひび割れ、供物らしきものは何もなかった。そこに立つと、風が急に冷たくなり、耳元で誰かが囁くような音がした。言葉は聞き取れなかったが、まるで「お前も来い」と誘うような、ねっとりとした声だった。

それ以来、俺は二度と夜の砂丘に近づいていない。だが、今でもあの夏の夜のことを思い出すたび、背後で砂を踏む音が聞こえる気がする。あの妖は、まだ砂丘のどこかで、獲物を待ち続けているのかもしれない。

数年後、健太から聞いた話では、集落の誰かが砂丘で奇妙な足跡を見つけたという。人間のものより大きく、爪のような痕が残った足跡だったそうだ。集落の老人たちは、それを砂ノ影のものだと囁き、祠に供物を再び捧げ始めたという。だが、俺には分かる。あの妖は、そう簡単に鎮まるものではない。なぜなら、あの夜、俺と健太が物置で人形を動かした瞬間、何かを解き放ってしまった気がしてならないからだ。

今でも、鳥取の砂丘を訪れる観光客が、夜に妙な気配を感じたり、遠くで笑い声のような音を聞いたという話を耳にする。あの砂丘には、決して踏み入れてはいけない時間がある。そして、俺は知っている。砂ノ影は、ただ静かに、だが確かに、そこにいるのだ。

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