深夜の校舎に響く足音

学校

長野県の山間にひっそりと佇む、古い木造の小学校。そこは昼間こそ子供たちの笑い声が響く場所だが、夜になるとまるで別の世界に変わる。校舎の周りを囲む深い森は、月明かりさえ遮るようにそびえ、風が木々を揺らす音だけが静寂を破る。そんな場所で、かつて教師として働いていた男が語った体験は、今も地域でひそかに語り継がれている。

その男は新米の教師だった。まだ20代後半で、都会からこの小さな村の学校に赴任してきたばかり。生徒は全校で30人もおらず、教師たちも含めて皆が家族のような関係だった。しかし、赴任して間もないある夜、彼は忘れられない出来事に遭遇した。

その日は職員会議が長引き、校舎に残っていたのは彼一人だった。時計はすでに夜の10時を回り、窓の外は真っ暗。職員室で明日の授業の準備を終え、校舎の鍵を閉めるために廊下に出た瞬間、彼は異変を感じた。静寂の中に、どこか遠くから「カツ、カツ」という音が聞こえてきたのだ。まるで誰かが硬い靴で廊下を歩くような、規則正しい足音だった。

「誰かいるのか?」

彼は声を上げたが、返事はない。足音は一瞬止まったが、すぐにまた聞こえ始めた。音は校舎の奥、普段は使われていない旧校舎の方から響いてくるようだった。この学校には、老朽化のために閉鎖された古い校舎が隣接しており、普段は誰も立ち入らない。子供たちには「危ないから入るな」と厳しく言い聞かせ、教師たちも必要がない限り近づかない場所だった。

好奇心と責任感から、彼は懐中電灯を手に旧校舎へと向かった。足音は依然として続き、近づくにつれてその音はよりはっきりと聞こえてきた。カツ、カツ、カツ。まるで誰かが彼を誘うように、一定のリズムで響く。旧校舎の重い木製の扉を開けると、埃っぽい空気が鼻をついた。懐中電灯の光が、長い間放置された教室や廊下を照らし出す。そこには誰もいない。だが、足音は止まらない。

「誰だ! 出てこい!」

彼は叫んだが、声は虚しく校舎内に反響するだけ。足音は今度は彼の背後から聞こえてきた。振り返るが、そこには誰もいない。懐中電灯の光が揺れ、彼の心臓は早鐘を打つ。恐怖が背筋を這い上がる中、彼は一つの教室の前で立ち止まった。足音がその教室の中から聞こえてくるのだ。

教室のドアは半開きで、ガラス窓から中を覗くと、月明かりが薄く差し込んでいた。机や椅子は乱雑に積み上げられ、まるで時間が止まったかのような光景が広がる。だが、その中で一つだけ異様なものがあった。教室の黒板に、白いチョークで大きく書かれた文字。

『ここにいるよ』

彼の背後で、突然足音が止まった。静寂が耳を圧する。次の瞬間、教室の奥から小さな笑い声が聞こえた。子供の声だった。だが、それは無邪気な笑いではなく、どこか冷たく、嘲るような響きを持っていた。彼は凍りついたまま動けなかった。懐中電灯の光が揺れ、影が壁を這う。笑い声は次第に大きくなり、複数の声が重なり合うように聞こえてきた。

「遊ぼうよ、先生」

声は教室のあちこちから響き、彼を包囲するようだった。恐怖に耐えきれず、彼は教室から逃げ出した。廊下を走り、旧校舎の出口を目指す。だが、足音が再び追いかけてくる。今度は一つではなく、複数の足音が彼の後ろをついてくる。カツ、カツ、カツ。まるで大勢の子供たちが彼を追いかけるように。

ようやく新校舎に戻り、職員室に飛び込んだ彼は、ドアに鍵をかけ、息を整えた。外からはまだ足音が聞こえる。窓の外を見ると、旧校舎の窓にいくつもの小さな人影が映っているように見えた。だが、目を凝らすと、それはただの木の枝の影だった。いや、そう思い込みたかっただけかもしれない。

翌朝、彼は同僚に昨夜の出来事を話したが、誰も本気にはしてくれなかった。「あの旧校舎には昔、子供たちがよくいたから、風の音でも聞いたんじゃないか」と笑いものだ。しかし、彼は確信していた。あれはただの風や気のせいではなかった。数日後、彼は旧校舎の歴史を調べ始めた。すると、驚くべき事実が明らかになった。

数十年前、旧校舎で火事が起きたことがあった。幸い死者は出なかったが、その後、校舎は使われなくなり、新しい校舎が建てられたのだという。だが、村の古老たちに話を聞くと、火事の夜に不思議な噂が流れていた。火事の混乱の中、数人の子供たちが校舎に取り残されたまま行方不明になり、その後誰も見つけられなかったというのだ。公式には「全員無事に避難した」と記録されていたが、村人たちの間では「子供たちの霊がまだ校舎にいる」と囁かれていた。

彼はその話を聞いてから、夜の校舎に近づくのをやめた。だが、それでも時折、職員室の窓から旧校舎を見ると、窓に小さな手形がついているように見えることがあった。すぐに消えてしまうその手形は、彼の心に深い恐怖を刻み込んだ。

やがて彼は学校を辞め、村を離れた。だが、村に残った人々は今も語る。夜の校舎で聞こえる足音、教室に響く笑い声、そして黒板に書かれる不気味な文字。あの旧校舎には、何かがいる。決して一人で近づいてはいけない、と。

今もその校舎はひっそりと建っている。昼間はただの古い建物だが、夜になると、そこには誰も知らない時間が流れているのかもしれない。もしあなたが長野の山間を訪れ、偶然その校舎を見つけたなら、決して中に入らないでほしい。なぜなら、そこにはまだ「誰か」がいるかもしれないから。

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