廃墟の囁きが呼ぶ夜

実話風

大阪府の郊外、雑木林に囲まれた寂れた工業地帯に、その建物はひっそりと佇んでいた。
古びたコンクリートの壁に蔦が絡まり、割れた窓ガラスが月光を不気味に反射する、廃墟と化した工場だ。
地元では「入ったら戻れない」と囁かれる場所だった。
今から数年前、好奇心に駆られた若者たちがその噂を確かめようと、夜の闇に紛れて廃墟に足を踏み入れた。

主人公の翔太は、大学で映像制作を学ぶ20歳の青年だった。
友人の亮と美咲、そして亮の彼女の彩花の4人で、肝試しと称してカメラを手に廃墟に向かったのだ。
「こんなとこ、ただのボロい建物だろ」と亮は笑いながら言ったが、翔太はどこか胸騒ぎを覚えていた。
廃墟の鉄門をくぐると、空気が一変した。
湿った土と錆びた鉄の匂いが鼻をつき、風もないのに背筋がぞくりとした。

工場の中は、まるで時間が止まったかのようだった。
古い機械が無造作に放置され、床には埃と破片が積もっている。
美咲が「何か変な感じがする…」とつぶやくと、彩花が「やめようよ、帰りたい」と震えた声で訴えた。
だが、亮は「せっかく来たんだから、もっと奥まで行こうぜ」と強引に進んだ。
翔太はカメラを回しながら、妙な違和感を拭えなかった。
レンズ越しに見える光景が、どこか歪んでいる気がしたのだ。

やがて、彼らは工場の奥にたどり着いた。
そこには、かつて従業員の休憩室だったらしい部屋があった。
壁には色褪せたポスターが貼られ、テーブルには使い捨てのコーヒーカップが放置されている。
だが、異様なのはその部屋の中心にあった古い鏡だった。
曇り、ひび割れたその鏡は、まるで何かを見ずにはいられないような磁力を放っていた。
翔太がカメラを向けると、ファインダー越しに一瞬、誰かの影が映った気がした。
「何だ、今の…?」と彼がつぶやいた瞬間、部屋の空気が重くなった。

突然、彩花が叫び声を上げた。
「鏡!鏡に何かいる!」
全員が振り返ると、鏡の中にぼんやりとした人影が浮かんでいた。
女のようだったが、顔ははっきりせず、長い黒髪が不自然に揺れている。
亮が「ふざけんな、こんなのトリックだろ!」と叫びながら鏡に近づいた瞬間、電気が走ったような衝撃音が響き、彼は後ろに吹き飛ばされた。
美咲が泣き叫び、翔太はカメラを握りしめながら「逃げろ!」と叫んだ。
だが、出口に向かう廊下は、まるで迷路のように変わっていた。

走る彼らの背後で、足音が追いかけてくる。
それは人間のものではなく、湿った床を這うような、不気味な音だった。
彩花が「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返しながら走るが、彼女の声は次第に遠ざかり、突然途切れた。
翔太が振り返ると、彩花の姿は消えていた。
「彩花!どこだ!」と亮が叫ぶが、返事はない。
代わりに、どこからか低い女の笑い声が聞こえてきた。

パニックの中、翔太たちはなんとか出口を見つけ、廃墟を飛び出した。
だが、彩花は見つからなかった。
警察に通報し、捜索が行われたが、彼女の痕跡は一切発見されなかった。
廃墟の中には、彼女がいた証拠すらなかったのだ。
翔太のカメラに残っていた映像も、なぜかその夜の記録だけが破損し、再生できなくなっていた。

それから数ヶ月、翔太は悪夢に悩まされた。
夢の中で、あの鏡の中の女が彼を見つめ、こう囁くのだ。
「お前も来なさい…ここはまだ終わっていない…」
亮は酒に溺れ、美咲は精神を病んで入院した。
翔太は廃墟のことを調べ始めたが、そこで知ったのは、数十年前、その工場で若い女性従業員が事故で亡くなり、その後、不可解な失踪事件が続いたという事実だった。
地元では、彼女の霊が廃墟に棲みつき、訪れる者を引きずり込むと囁かれていた。

ある夜、翔太は再びあの廃墟の前に立っていた。
なぜそこにいるのか、自分でもわからなかった。
ただ、カメラを手に、足が勝手に動いたのだ。
鉄門をくぐると、懐かしい匂いが鼻をついた。
そして、遠くから、あの女の笑い声が聞こえてきた。
翔太はカメラを構え、ゆっくりと奥へ進んだ。
もう、恐怖はなかった。
ただ、知りたいという衝動だけが彼を突き動かしていた。

翌朝、翔太の行方はわからなくなった。
彼のカメラだけが、廃墟の入口に放置されていた。
だが、誰もその映像を確認する勇気はなかった。
今もその廃墟は、静かにたたずんでいる。
夜になると、どこからか女の笑い声が漏れ、好奇心に駆られた者を待ち構えているという。

あなたがもし、大阪の郊外で、蔦に覆われた古い工場を見かけたら、決して近づかないでほしい。
そこには、ただの廃墟ではない何かがある。
そして、それはあなたを、決して離さないかもしれない。

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