赤い目の女

実話風

30年前、群馬県の山奥にひっそりと佇む小さな集落があった。そこは、舗装されていない細い道が一本だけ通じ、夜になると真っ暗な闇に飲み込まれるような場所だった。集落の外れには、古びた神社がポツンと建ち、その裏手には「入るな」と書かれた朽ちかけた看板が立っていた。地元の者なら誰でも知っている。そこは「狐塚」と呼ばれる、決して近づいてはいけない場所だった。

俺は当時、大学を卒業したばかりで、教師としてこの集落の小さな分校に赴任してきた。都会育ちの俺にとって、この場所はまるで別世界だった。電気は不安定で、夜になるとカエルの鳴き声と虫の音だけが響く。生徒たちは素朴で、どこか大人びた目を持っていた。彼らは決して狐塚の話はせず、俺が尋ねても口を閉ざした。

ある晩、赴任して一ヶ月ほど経った頃、俺は職員室で遅くまで書類を整理していた。時計はすでに10時を回り、外は墨を流したような闇に包まれていた。ふと、窓の外から奇妙な音が聞こえてきた。カサカサ、という枯れ葉を踏むような音だ。最初は風のせいかと思ったが、音は次第に近づいてくる。まるで、誰かがゆっくりと校舎に近づいているようだった。

「誰だ?」

俺は懐中電灯を手に、恐る恐る玄関に向かった。ドアを開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。懐中電灯の光を校庭に走らせたが、何も見えない。ただ、音だけが続いている。カサカサ、カサカサ。まるで、すぐそこにいるのに姿が見えないような感覚だった。背筋に冷たいものが走ったが、都会育ちのプライドが「こんな田舎でビビるわけにはいかない」と俺を突き動かした。

音を頼りに校庭の端まで進むと、そこには小さな裏門があった。普段は使われていない、錆びついた門だ。音はその向こう、森の奥から聞こえてくる。俺は門をくぐり、懐中電灯を手に森の中へ足を踏み入れた。そこは、集落の者たちが決して近づかない、狐塚へと続く道だった。

森の中は、昼間でも薄暗いと聞いていたが、夜ともなればまるで光が吸い込まれるようだった。懐中電灯の光すら、すぐに闇に飲み込まれる。カサカサという音は、依然として聞こえる。だが、どこから聞こえるのか分からない。まるで、俺の周りをぐるぐると回っているようだった。心臓が早鐘のように鳴り、汗が額を伝う。なのに、なぜか足は止まらなかった。まるで、何かに呼ばれているような感覚だった。

どれだけ歩いただろう。突然、目の前に開けた空間が現れた。そこには、古い石碑がいくつも並び、苔むした鳥居が立っていた。狐塚だ。石碑の間には、赤い布が無造作に巻かれ、風もないのにゆらゆらと揺れている。カサカサという音は、ここで止まっていた。代わりに、別の音が聞こえてきた。低く、くぐもった声のようなものだ。

「……おいで……」

声は、鳥居の奥から聞こえてくる。懐中電灯を向けると、そこには誰もいない。だが、鳥居の向こうに、ぼんやりと赤い光が揺れているのが見えた。まるで、誰かがそこに立っているかのように。俺の足は、まるで自分の意志とは関係なく、鳥居に向かって進んでいた。

鳥居をくぐった瞬間、背後でガサッと大きな音がした。振り返ると、懐中電灯の光に照らされた木々の間から、赤い目がこちらを見ていた。人間の目ではない。異様に大きく、燃えるように輝く目だ。次の瞬間、そいつはものすごい速さで俺に飛びかかってきた。俺は咄嗟に身を投げ出し、地面に転がった。懐中電灯が手から離れ、闇の中で光が乱舞する。

「助けてくれ!」

叫びながら這うように逃げたが、背後からカサカサという音が追いかけてくる。振り返る勇気すらなかった。どれだけ走ったか分からない。気がつけば、俺は集落の入り口まで戻っていた。息を切らし、泥だらけのまま集落の明かりにたどり着いたとき、背後の音はピタリと止んだ。

翌朝、俺は集落の古老に昨夜のことを話した。すると、彼女は顔を青ざめ、こう言った。

「あんた、狐塚に行ったのかい? あそこには、昔、村を見捨てた女が封じられている。あの女は、赤い目で人を惑わし、魂を喰らうんだ。生きて帰れたのは奇跡だよ」

彼女の話によると、狐塚に封じられた女は、かつて集落を裏切り、禁忌を犯した者だった。村人たちは彼女を神社の奥に封じ、決して近づかないよう言い伝えを守ってきた。だが、時折、よそ者がその場所に引き寄せられ、姿を消すのだという。

その話を聞いてから、俺は夜になるとあの赤い目が脳裏に浮かぶようになった。集落にいる間、夜は一睡もできなかった。結局、俺は次の年に分校を辞め、都会に戻った。だが、あの夜のことは今でも忘れられない。時折、夜中にカサカサという音を聞くことがある。窓の外を見ると、遠くに赤い光が揺れている気がする。あの女は、まだ俺を追っているのかもしれない。

群馬の山奥には、今もあの狐塚がひっそりと佇んでいるという。もし、君があの辺りを通ることがあれば、決して森の奥に足を踏み入れてはいけない。赤い目に見つかったら、もう二度と戻ってこられないかもしれないから。

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