京都の夏は、蒸し暑さが肌にまとわりつく。10年ほど前、祇園の路地裏で、ある小さな事件が私の人生を一変させた。今でもあの夜のことを思い出すと、背筋に冷たいものが走る。
私は当時、大学二年生だった。夏休みを利用して、友人のアパートに遊びに行った帰り道、祇園四条のあたりをぶらついていた。時刻は夜の10時を少し回ったところ。祇園の花見小路は、観光客や浴衣姿のカップルで賑わっていたが、一歩路地に入ると、急に静けさが広がる。古い木造の町家が並び、提灯の明かりがぼんやりと石畳を照らす。そんな場所を、ほろ酔い気分で歩いていた。
その夜、私の後ろを歩く足音に気づいたのは、路地を曲がってすぐのことだった。カツ、カツ、と軽い靴音が、一定のリズムで響く。振り返ると、誰もいない。観光客の多い場所だから、誰かが近くを歩いているのだろうと気にも留めなかった。だが、歩みを進めてもその足音は止まない。それどころか、私の歩調に合わせて、まるで追いかけてくるように聞こえた。
「誰かいる?」
思わず声に出したが、返事はない。路地の両側には閉まった店のシャッターと、暗い窓しかない。足音はさらに近づいてくる気がした。カツ、カツ、カツ。心臓が早鐘を打つ。私は早足になり、しまいには走り出した。石畳の凹凸に足を取られそうになりながら、必死で花見小路の明るい通りに戻った。そこにはまだ人通りがあり、ほっと胸を撫で下ろした。足音は、いつの間にか消えていた。
その夜、友人のアパートに戻ってからも、落ち着かなかった。友人に話すと、「祇園の路地は変な噂が多いよ」と笑いものだったが、私は笑えなかった。シャワーを浴び、ベッドに横になっても、あの足音が耳にこびりついて離れない。カツ、カツ、カツ。まるで私の心臓の鼓動とシンクロするように。
翌日、気分を紛らわそうと、友人と一緒に鴨川沿いを散歩した。昼間の京都は、昨夜の不気味さとは打って変わって穏やかだった。川面を渡る風が心地よく、観光客の笑い声が響く。それでも、私の心のどこかで、昨夜の足音が小さな棘のように引っかかっていた。
その日の夕方、友人が「面白い場所がある」と連れて行ってくれたのは、祇園の外れにある小さな神社だった。鳥居は苔むし、境内は薄暗く、観光客の姿はなかった。友人は「ここ、地元の人しか知らないんだ。ちょっと不思議な話があるんだよね」と笑った。その神社は、昔、祇園で亡魂が彷徨うのを鎮めるために建てられたのだという。特に、夏の夜には「足音だけの霊」が現れるという噂があった。
「足音だけ?」
私は思わず聞き返した。友人は頷き、「そう。姿は見えないけど、追いかけてくる足音が聞こえるんだって。昔、祇園で死んだ芸妓の霊だとか」。私は背筋が凍る思いだった。昨夜の足音が、頭の中で再び響き始めた。カツ、カツ、カツ。友人は私の顔色を見て、「まさか、お前、聞いたの?」と冗談めかしたが、私は言葉を失った。
その夜、私は再び祇園の路地を通らざるを得なかった。友人のアパートから駅に向かうには、どうしてもあの花見小路の近くを通る必要があったのだ。時計は夜の11時を回っていた。人通りはまばらで、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。私はイヤホンを耳に押し込み、音楽で気を紛らわせようとした。だが、曲の隙間から、またあの音が聞こえてきた。カツ、カツ、カツ。イヤホンを外すと、音はさらに鮮明だった。
今度ははっきりと、後ろに誰かがいる感覚があった。振り返っても、誰もいない。だが、足音は止まらない。私は走った。石畳を蹴り、息を切らしながら明るい通りに飛び出した。そこにはタクシーが停まっていた。私は迷わず乗り込み、「駅まで!」と叫んだ。運転手は怪訝な顔をしたが、何も言わずに車を走らせた。後部座席で息を整えながら、窓の外を見ると、路地の暗がりに何かが見えた気がした。白い着物の裾のような、揺れる影。だが、次の瞬間には消えていた。
駅に着き、電車に飛び乗った私は、ようやく人心地ついた。だが、安心は束の間だった。電車の中で、ふと隣の席を見ると、空席のはずなのに、かすかにカツ、カツ、という音が聞こえた。車両の揺れか、誰かの靴音か。私は自分にそう言い聞かせたが、心の底ではわかっていた。あの足音は、私を追いかけてきている。
それから数日、私は京都を離れ、実家に戻った。だが、足音は止まなかった。夜、布団の中で目を閉じると、カツ、カツ、カツ、と聞こえてくる。最初は夢だと思っていた。だが、ある夜、はっきりと目を開けた状態でその音を聞いた。私の部屋の外、廊下から聞こえてくる。カツ、カツ、カツ。ドアの向こうに、誰もいないことはわかっていた。なのに、音は近づいてくる。
私は藁にもすがる思いで、近所の寺に相談に行った。住職は私の話を静かに聞き、「それは、祇園で何かを見ず知らずのものに憑かれたのかもしれない」と告げた。お祓いを受け、護符を渡されたが、住職の言葉が忘れられない。「その霊は、追いかけることで自分の存在を覚えてほしいだけかもしれない。だが、決して振り返ってはいけない。振り返れば、それはお前の一部になる」
お祓いから数週間、足音は少しずつ聞こえなくなった。だが、今でも、静かな夜にふと耳を澄ますと、遠くでカツ、カツ、という音が聞こえる気がする。私は振り返らない。振り返れば、あの白い着物の影が、そこにいるかもしれないから。
祇園の路地は、今も変わらず観光客で賑わっていると聞く。だが、私は二度とあの場所には近づかない。あの夏の夜、私が聞いた足音は、ただの幻聴ではなかった。それは、私に何かを伝えようとした、名もなき亡魂の声だったのかもしれない。