朽ち果てた社の囁き

実話風

20年前の青森の山奥、俺は大学の民俗学研究会で、廃村に残る古い社の調査に同行した。

その村は、数十年前にダム建設で水没予定だったが、計画が頓挫し、住民は皆去った。残された家々は苔に覆われ、朽ちた木材が湿った土に沈む。空気は重く、どこか甘ったるい腐臭が漂っていた。俺たちの目的は、村はずれの山にひっそりと佇む「黒滝社」の調査。地元では「近づくな」と囁かれる場所だ。

メンバーは俺を含めて4人。リーダーの先輩は民俗学に熱心で、いつも冷静沈着。もう一人の先輩は写真担当で、霊感があると自称していた。最後は同学年の女友達で、怖がりだけど好奇心旺盛な子だ。車で村に着いたのは昼過ぎ。曇天の下、森の奥へ続く獣道を進んだ。

黒滝社は、山の斜面にぽつんと建っていた。社は小さく、木造の屋根は半分崩れ、鳥居は赤い塗料が剥げて黒ずんでいる。社の前には小さな滝があり、水音が不規則に響く。なんだか、その水音が人の囁きのように聞こえて、背筋がぞっとした。

「ここ、なんか変な感じするね…」
女友達が呟くと、写真担当の先輩が笑いながら言った。
「そりゃ、霊感持ちの俺がビリビリ感じるくらいだ。なんかいるよ、ここ」
冗談めかしていたが、彼の目は真剣だった。

調査を始めると、リーダーの先輩が社の歴史を説明し始めた。黒滝社は、数百年前に村の守り神として祀られたが、ある時期から「穢れたもの」が封じられた場所とされたらしい。村人は社に近づかなくなり、供物も途絶えた。話の途中で、女友達が突然小さな悲鳴を上げた。

「何か…今、社の奥で動いた気が…」
全員が一斉に社を見たが、暗い内部には何も見えない。ただ、滝の水音が一瞬だけ途切れた気がした。リーダーの先輩は「動物だろう」と冷静に言ったが、俺の心臓は早鐘を打っていた。

写真担当の先輩がカメラを構え、フラッシュを焚いて社の内部を撮影した。その瞬間、フラッシュの光に照らされた社の中から、かすかに白い影が揺れた。俺は目を疑ったが、先輩も「今、なんか映った!」と叫んだ。女友達は震えながら俺の腕を掴んだ。

「やめよう、帰ろう…ここ、絶対おかしいよ…」
彼女の声は涙まじりだったが、リーダーの先輩は「もう少し調べる」と頑なだった。俺も怖かったが、好奇心と先輩への信頼で踏みとどまった。

夜が近づくにつれ、霧が濃くなった。懐中電灯の光が霧に滲み、視界は数メートル先までしか届かない。調査を続ける中、写真担当の先輩が突然立ち止まった。

「…聞こえるか? 誰か、笑ってる」
耳を澄ますと、確かに遠くから、くぐもった笑い声のような音が聞こえた。滝の水音に混じって、女の声のような、子供のような、不気味な響き。俺たちは凍りついた。リーダーの先輩でさえ、顔を強張らせていた。

「撤収だ。すぐ車に戻るぞ」
彼の声に、俺たちは我に返った。だが、獣道を戻る途中、女友達が足を滑らせ、斜面を数メートル滑り落ちた。彼女を助けに降りた俺は、霧の向こうに、ぼんやりと白い人影が立っているのを見た。着物をまとった女のようで、顔は見えない。だが、その影はゆっくりと俺たちの方へ近づいてくる。

「見るな! 走れ!」
リーダーの先輩が叫び、俺たちは必死で逃げた。背後で、笑い声が大きくなり、まるで追いかけてくるようだった。車にたどり着いた時、女友達は泣きじゃくり、写真担当の先輩は青ざめていた。エンジンをかけ、村を後にしたが、バックミラーに映る森の奥で、何かが動いている気がしてならなかった。

後日、写真担当の先輩が撮影したフィルムを現像した。ほとんどの写真は霧で白っぽく、社は暗く映っていた。だが、一枚だけ、フラッシュで照らされた社の奥に、はっきりと白い着物の女が写っていた。顔はぼやけ、目だけが異様に黒く、こちらを睨んでいるようだった。先輩は震える手で写真を燃やし、「二度とあの村には行かない」と呟いた。

それからしばらく、俺たちは悪夢に悩まされた。女友達は夜中に笑い声が聞こえると言い、写真担当の先輩は「誰かが部屋にいる」と怯えていた。リーダーの先輩は無口になり、民俗学をやめた。俺も、滝の水音を聞くたびに、あの白い影を思い出す。

今でも、青森の山奥には黒滝社がひっそりと佇んでいるらしい。だが、地元の人に聞いても、誰もその場所を教えてくれない。ただ、こう言うだけだ。
「そこには、触れちゃいけないものがいる」

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