数年前、愛知県の山間部にひっそりと佇む小さな集落に、俺は友人の誘いで訪れていた。友人の実家がその集落にあり、夏休みの数日間をそこで過ごそうという計画だった。集落は古びた家々が点在し、昼間でもどこか薄暗い雰囲気が漂っていた。携帯の電波はほとんど届かず、夜になると虫の声だけが響くような場所だった。
友人の実家は集落の外れにあり、裏手には鬱蒼とした森が広がっていた。その森の奥に、誰も近づかない古い廃屋があると、友人が教えてくれた。廃屋は数十年前に火事で焼け落ち、住んでいた家族が全員亡くなった場所らしい。以来、集落の人々はその場所を避け、子供たちは「夜に近づくと幽霊に連れていかれる」と言い伝えられていた。友人は冗談半分で「肝試しに行ってみねえ?」と言ったが、俺は気乗りしなかった。だが、友人の従兄弟や地元の若者たちが集まり、結局、夜の廃屋探検に付き合うことになった。
その夜、月明かりも薄い中、俺たちは懐中電灯を手に森の小道を進んだ。空気はひんやりと冷たく、木々の間から聞こえる風の音が不気味に感じられた。廃屋に近づくにつれ、仲間たちの笑い声も減り、誰もが無言になっていった。廃屋は森の奥にぽつんと現れた。屋根は半分崩れ、壁は黒ずんだ焼け跡に覆われ、窓ガラスは全て割れていた。まるで時間が止まったような、異様な空気がそこには漂っていた。
「やっぱりやめようぜ」と俺がつぶやくと、友人が「ビビってんのかよ」と笑った。だが、その声にはどこか強がりの響きがあった。結局、従兄弟が「中に入ってみよう」と言い出し、皆で廃屋の玄関に足を踏み入れた。床は腐りかけ、足を踏むたびに軋む音が響いた。懐中電灯の光が、焼け焦げた壁や散乱した家具を照らし出す。空気はカビ臭く、どこか甘ったるい匂いも混じっていた。
廃屋の奥に進むと、リビングらしき部屋に出た。そこには古い木製の揺りかごが置かれていた。揺りかごは埃に覆われ、ところどころ焦げていたが、なぜかその部屋だけが他の場所より冷たく感じられた。従兄弟が「これ、火事の時にここにあったやつじゃね?」と呟いた瞬間、どこからか低い唸り声のような音が聞こえてきた。皆が一斉に懐中電灯を振り回したが、音の出どころはわからなかった。俺の背筋に冷たいものが走った。
「帰ろうぜ、なんかヤバい」と俺が言うと、友人も頷いた。だが、その時、揺りかごがひとりでに動き出した。キイ、キイと小さな音を立てながら、ゆっくりと揺れ始めたのだ。誰も触っていない。風もない。俺たちは凍りついたようにその場に立ち尽くした。すると、どこからか子守唄のようなメロディが聞こえてきた。かすれていて、まるで誰かが喉を詰まらせながら歌っているような、不気味な声だった。
「誰だよ!ふざけんな!」と従兄弟が叫んだが、声は震えていた。子守唄は次第に大きくなり、まるで部屋全体に響き渡るようだった。懐中電灯の光が揺らぎ、影が壁を這うように動いた。俺は恐怖で足がすくみ、動けなかった。友人が俺の腕を掴み、「走れ!」と叫んだ。その瞬間、背後でドンという大きな音が響き、振り返ると、揺りかごが床に叩きつけられるように倒れていた。
俺たちは一目散に廃屋を飛び出し、森を駆け抜けた。背後で子守唄が追いかけてくるような気がして、振り返ることもできなかった。集落に戻った時、俺たちの顔は真っ青だった。友人の両親に事情を話すと、母親の顔が強張った。「あの廃屋には近づいちゃいけないって言ったでしょ」とだけ言って、それ以上は何も語らなかった。
翌日、俺たちは集落を離れたが、あの夜の出来事が頭から離れなかった。後日、友人が地元の古老に話を聞いたところ、廃屋に住んでいた家族には幼い子供がいたという。火事の夜、母親は子供を抱いて逃げようとしたが、煙に巻かれて動けなくなり、子守唄を歌いながら息絶えたらしい。それ以来、廃屋では夜な夜な子守唄が聞こえるという噂が絶えなかった。
今でもあの揺りかごの音と子守唄が耳にこびりついている。愛知の山奥に、あの廃屋は今もひっそりと佇んでいる。もし、夜にその近くを通ることがあれば、耳を澄ませてみてほしい。かすかな子守唄が、あなたの背後で響くかもしれない。