闇に蠢く古井戸の呪い

怪奇現象

明治の三重県、伊勢の山奥にひっそりと佇む小さな村があった。村の名は知られず、地図にも記されないほど隔絶された場所だった。村人たちは古くから伝わる風習を守り、決して外の者を近づけなかった。特に、村の中央に位置する古井戸には誰も近寄らず、夜になるとその周囲を歩くことすら禁じられていた。井戸の底には、何か得体の知れないものが潜んでいると、古老たちは囁き合っていた。

村に住む少年、健太は好奇心旺盛な性格だった。両親を早くに亡くし、祖母に育てられた彼は、村の掟や言い伝えをあまり信じていなかった。ある夏の夜、健太は仲間たちと肝試しをしようと提案した。仲間たちは最初、気乗りしなかったが、健太の熱意に押され、ついに古井戸の近くまで行くことを決めた。月明かりが薄く、木々の間を風が不気味に唸る夜だった。

「本当にやるのかよ、健太。あの井戸、なんかヤバいって…」

仲間のひとりが震える声で言ったが、健太は笑いながら答えた。

「バカ言うなよ。井戸なんてただの水溜まりだろ。ほら、行くぞ!」

一行は提灯を手に、そろそろと井戸に近づいた。井戸の周りは異様な静けさに包まれていた。普段は虫の声や風の音が響くはずの森が、この夜に限って死んだように静まり返っていた。井戸の縁に近づくと、健太はふと違和感を覚えた。井戸の底から、かすかに水の揺れる音が聞こえてくるのだ。だが、村の言い伝えでは、この井戸は涸れて久しいとされていた。

「なあ、聞こえるか?なんか…音がするぞ」

健太が囁くと、仲間たちは顔を見合わせ、怯えた表情を浮かべた。その瞬間、井戸の底から、低く唸るような声が響いた。それは人間の声とも獣の咆哮ともつかぬ、異様な音だった。仲間の一人が悲鳴を上げ、提灯を落とした。闇に飲み込まれた光の中で、井戸の縁に何か黒い影が蠢いているのが見えた。それはまるで、井戸の底から這い上がってくるかのようだった。

「逃げろ!」

健太の叫び声で我に返った仲間たちは、慌てて森の奥へと走り出した。だが、健太は動けなかった。足がまるで地面に縫い付けられたように動かない。井戸の縁に現れた影は、ゆっくりと形を成し始めた。それは女の姿だった。長い黒髪が顔を覆い、ぼろぼろの着物をまとった女が、井戸の縁に両手をついて這い上がってくる。彼女の顔は見えないが、その動きには異様な執念が感じられた。

「…お前、誰だ…」

健太は震える声で呟いた。女は答えない。代わりに、彼女の髪の間から、赤く光る目が健太を睨みつけた。その目は憎しみと絶望に満ち、まるで健太の魂を抉るようだった。次の瞬間、女の口から、耳をつんざくような叫び声が響いた。健太はたまらず耳を塞ぎ、地面に膝をついた。

その夜、健太は村に戻れなかった。仲間たちは村に逃げ帰り、健太が井戸のそばで消えたと訴えた。村人たちはすぐに井戸の周りを調べたが、健太の姿はどこにもなかった。ただ、井戸の縁に、血のような赤い染みが残されていた。それを見た村の古老は、顔を青ざめ、こう呟いた。

「あの女が…また目を覚ましたのだ」

村に伝わる古い話によれば、明治の初め、村に一人の若い女がいた。彼女は村の外から嫁いできたが、村人たちに受け入れられず、孤独な日々を送っていた。ある日、彼女は村の有力者に目をつけられ、拒絶したことで激しい迫害を受けた。耐えかねた彼女は、村人たちの前で井戸に身を投げ、呪いの言葉を吐きながら死んだ。それ以来、井戸には彼女の怨霊が棲みつき、近づく者を呪うと言い伝えられていた。

健太の失踪後、村では不思議な出来事が続いた。夜になると、井戸の近くで女のすすり泣く声が聞こえ、村人たちの家では物が勝手に動いたり、窓ガラスに血の手形が浮かんだりした。村人たちは恐怖に怯え、井戸を封じることを決めた。だが、井戸に近づいた者たちは、みな原因不明の高熱に倒れ、作業は進まなかった。

数週間後、健太の祖母が村の外から神主を呼んだ。神主は井戸の前に立ち、長い祈祷を行った。祈祷の間、井戸の底から激しい風が吹き上がり、神主の袈裟を激しく揺らした。村人たちは遠くからその様子を見守っていたが、誰も近づこうとはしなかった。祈祷が終わると、神主は村人たちにこう告げた。

「この井戸の怨霊は、深い憎しみに縛られている。完全に封じることは難しいが、しばらくは鎮まるだろう。だが、決して井戸に近づいてはならぬ」

それ以来、村人たちは井戸を遠巻きに避け、夜には決して外に出なくなった。だが、健太の行方は依然として分からず、村には重い空気が漂い続けた。ある夜、村の子供が井戸の近くで遊んでいたところ、井戸の底から小さな声が聞こえたという。それは、健太の声に似ていた。

「助けて…ここから出して…」

子供が村人にその話を伝えたが、誰も井戸に近づこうとはしなかった。やがて、声は聞こえなくなった。村人たちは、健太が井戸の底で怨霊と共にあると信じ、彼の名を口にすることすら避けるようになった。

時は流れ、村は次第に廃れていった。明治の終わり頃、村は完全に無人となり、森に飲み込まれた。だが、今でもその場所を訪れる者は、夜になると井戸の底からすすり泣く声や、誰かを呼ぶような声を聞くという。地元の猟師の間では、井戸の近くで黒い影を見たという噂が絶えない。そして、井戸の縁には、今もなお、血のような赤い染みが残っているのだ。

この話を聞いた者は、決してその井戸に近づかない。なぜなら、井戸の底には、明治の時代から続く怨念が、今なお蠢いているからだ。

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