明治の宮崎県、霧深い山間の村。夜が更けると、谷底から不気味な泣き声が響いた。村人たちはそれを『夜泣き谷の鬼火』と呼び、決して近づかなかった。だが、ある夏の夜、若者たちが好奇心に駆られ、谷へと足を踏み入れた。
村の外れに住む庄太は、仲間たちと酒を酌み交わしていた。酒の勢いで、誰かが夜泣き谷の話を振った。「あの泣き声、ただの獣じゃねえか」と笑う者もいたが、庄太の胸には言い知れぬ不安が広がった。それでも、若者たちの高揚した空気に逆らえず、彼は仲間と共に提灯を手に局地的に火を灯し、谷へと向かった。
谷への道は険しく、霧が濃く、足元もおぼつかない。提灯の明かりは弱々しく、闇に呑み込まれそうだった。やがて、谷底にたどり着くと、奇妙な光が揺らめいているのが見えた。青白く、まるで魂が漂うような鬼火だ。仲間の一人が「ほら、ただの自然現象だろ」と笑ったが、その声は震えていた。
突然、泣き声が響き渡った。赤子の泣き声とも、女のすすり泣きともつかぬ、背筋が凍るような音。庄太の提灯が揺れ、仲間たちの顔は青ざめた。すると、鬼火が動き出した。ゆらゆらと、まるで意志を持っているかのように、こちらへ近づいてくる。庄太は凍りついた。動けない。仲間の一人が叫び声を上げ、逃げ出したが、足を滑らせ、谷底へと落ちていった。その悲鳴は、泣き声に掻き消された。
残された庄太と二人の仲間は、這うようにして逃げた。だが、鬼火は追いかけてくる。庄太の背後で、仲間の一人が「見ろ、あれは…!」と叫んだ。振り返ると、鬼火の中に女の姿が浮かんでいた。長い黒髪が揺れ、血走った目がこちらを睨む。彼女の手には、血まみれの布に包まれた何かがあった。庄太の心臓は止まりそうだった。
必死に逃げ、村に戻ったのは庄太ただ一人。他の仲間は二度と帰らなかった。村人たちは、庄太の話を聞いて顔を曇らせた。「あれは、子捨ての亡魂だ」と古老が囁いた。明治の初め、飢饉で子を谷に捨てた母親たちがいたという。その怨念が、鬼火となって彷徨っているのだと。
それから、庄太は夜になるたび、あの泣き声を聞いた。眠れぬ夜が続き、彼の目は落ちくぼみ、髪は白くなった。ある晩、庄太はふらりと家を出た。翌朝、彼の姿はどこにもなかった。村人たちは囁き合った。「夜泣き谷に呼ばれたんだ」と。
今も、宮崎の山奥では、夜泣き谷の鬼火が揺らめき、泣き声が響くという。そこへ足を踏み入れる者は、決して戻らない。
庄太の物語は、村から村へ、囁き声のように広がった。だが、真実を知る者は誰もいない。ただ、夜泣き谷の闇だけが、静かに全てを呑み込む。