青森の山奥、深い霧が立ち込める集落があった。30年前、そこで暮らす者たちは、決して口にしない暗黙の掟を守っていた。それは、村外れの森にひっそりと佇む古い社に近づかないこと。社は苔むし、朽ちかけた鳥居が傾き、まるで時間が止まったかのように静寂に包まれていた。村の古老たちは、社のことを「触れてはならぬもの」と呼び、子供たちには「近づけば祟られる」と言い聞かせていた。
俺の叔父は、その集落で生まれ育った男だった。頑健な体と豪快な笑い声が特徴で、村の猟師として山を知り尽くしていた。だが、叔父には一つだけ妙な癖があった。酒が入ると、社の話を始めるのだ。「あの社はな、昔、村を呪った女の怨念が封じられてるんだ」と、目をぎらつかせて語る。村人たちはそんな話を聞くと顔を曇らせ、すぐに話題を変えた。叔父の話は、ただの酔っ払いの戯言だと思われていた。
あの夏、俺は高校生だった。夏休みを利用して、青森の叔父の家に遊びに行った。叔父はいつものように山の話をしながら、俺を猟に連れ出した。山の空気は冷たく、木々のざわめきがどこか不気味に響いた。叔父は猟銃を肩に、軽快な足取りで森の奥へと進んでいく。だが、俺は気づいていた。叔父がいつもと違う道を選んでいることを。木々が密になり、足元の土が湿り気を帯びてきた。やがて、霧が濃くなり、前が見えづらくなった。
「叔父さん、どこ行くの? なんか変な感じするんだけど」
俺の声に、叔父は振り返らず、ただ低く笑った。「お前も見てみたいだろ? あの社だよ」
心臓が跳ねた。村で聞いた話が頭をよぎる。触れてはならぬもの。祟られる。だが、叔父の背中には有無を言わせぬ迫力があり、俺は黙ってついていくしかなかった。やがて、霧の向こうに、傾いた鳥居が見えた。社は想像以上に古びており、屋根は半ば崩れ、木々の根が石段を這うように覆っていた。空気が重く、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「叔父さん、やばいって。戻ろうよ」
だが、叔父は俺の言葉を無視し、社に近づいていく。その目は、まるで何かに取り憑かれたようだった。叔父は社の扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。中は暗く、湿った土の匂いが漂い、どこか腐臭のようなものが混じっていた。叔父は懐中電灯を取り出し、中を照らした。そこには、埃にまみれた祭壇があった。だが、祭壇の上には何もなかった。神像も、鏡も、ただの空っぽの空間。いや、よく見ると、祭壇の中央に小さな木箱があった。黒ずんだ木箱で、表面には奇妙な紋様が刻まれている。
「これだ」
叔父はそう呟き、木箱に手を伸ばした。俺は叫んだ。「やめろ! 触るな!」 だが、叔父は笑いながら箱を開けた。中には、髪の毛のようなものが詰まっていた。黒く、長い髪が、まるで生きているかのように箱から溢れ出した。瞬間、社の中が冷え込み、背筋が凍るような恐怖が俺を襲った。叔父の顔が歪み、笑い声が途切れた。次の瞬間、叔父は箱を落とし、膝をついた。
「叔父さん!?」
俺が駆け寄ると、叔父の目は白目を剥き、口から泡を吹いていた。俺はパニックになりながら叔父を担ぎ、なんとか社から引きずり出した。霧の中を必死に走り、村に戻った時には、叔父は意識を失っていた。村の医者に診せたが、原因不明の昏睡状態だと言われた。村人たちは、叔父が社に近づいたことを知ると、顔を青ざめさせ、誰も口を開かなかった。
それから数日後、叔父は目を覚ました。だが、叔父は変わっていた。以前の豪快さは消え、常に怯えた目で周りを見回し、夜になると「髪が這ってくる」と呟きながら体を掻きむしった。叔父の腕には、まるで髪の毛で締め付けられたような赤い痕が浮かんでいた。俺は怖くなり、叔父の家を離れ、都会に戻った。
それから数ヶ月後、叔父が死んだという連絡が入った。自殺だった。首を吊ったらしいが、村の噂では、叔父の首には黒い髪が絡みついていたという。俺は怖くて村には戻らなかった。だが、あの社のことは忘れられない。霧の中の鳥居、腐臭、黒い髪。あの木箱には、何が封じられていたのか。村の古老が言っていた「触れてはならぬもの」とは、ただの迷信ではなかった。
今でも、夜中に目を覚ますと、耳元で髪が擦れるような音が聞こえることがある。窓の外を見ると、霧が立ち込めているような気がする。あの夏、俺は叔父と一緒に何かを持ち帰ってしまったのかもしれない。社に封じられた呪いは、俺の人生にまだ影を落としている。