兵庫県の山深い集落に、誰も寄り付かない廃屋があった。古びた木造の家は、苔と蔦に覆われ、まるで森の一部と化しているようだった。地元の者はその家を「囁きの家」と呼び、近づくことを避けた。夜になると、誰もいないはずの家から、かすかな囁き声が聞こえるというのだ。だが、その声を聞いた者は、決して無事ではいられなかった。
ある夏の夜、若者たちが肝試しにその廃屋へ向かった。グループは五人。リーダー格の男は、仲間を盛り上げるために大げさに笑い、怖い話など信じないと言い放った。だが、他の四人はどこか不安げだった。山道を登り、懐中電灯の光を頼りに廃屋にたどり着いたとき、月は厚い雲に隠れ、辺りは不気味な静寂に包まれていた。
家の前には、朽ちかけた鳥居が立っていた。まるでそこが聖域であるかのように、風すら止んでいるようだった。リーダーの男が冗談めかして鳥居を叩くと、どこからか低い唸り声のような音が響いた。仲間の一人が「やめろよ」と震える声で言ったが、男は笑って玄関の引き戸を無理やり開けた。軋む音とともに、埃とカビの匂いが鼻をついた。
中は予想以上に荒れ果てていた。畳は腐り、壁には得体の知れない黒い染みが広がっている。懐中電灯の光が揺れるたび、影が不自然に動くように見えた。グループは一階を軽く探索し、怖がる仲間をからかいながら二階へ続く階段を見つけた。階段は異様に狭く、踏み板が今にも崩れそうだった。リーダーは「上に何か面白いものがあるかもな」と言い、先頭に立って登り始めた。
二階に上がると、空気が一変した。まるで冷蔵庫の中に閉じ込められたような寒気が肌を刺した。そこには、埃をかぶった古い鏡が壁に掛けられていた。鏡の表面は曇り、ところどころひびが入っている。仲間の一人が「これ、なんかやばい雰囲気だな」と呟くと、リーダーが笑いながら鏡を叩いた。その瞬間、鏡の中から、かすかな笑い声が聞こえた。
全員が凍りついた。声は小さく、まるで子供のようだったが、どこか歪んでいる。リーダーは「誰かふざけてんだろ」と強がったが、声は再び聞こえた。今度ははっきりと、「ここにいるよ」と。懐中電灯の光が一瞬揺れ、鏡の中に何かが見えた。ぼんやりとした人影が、鏡の向こうで揺れているのだ。だが、振り返っても誰もいない。
パニックになりかけた仲間の一人が叫び、階段を駆け下りようとした。しかし、階段の途中で足を滑らせ、転げ落ちるような音が響いた。仲間が駆け寄ると、彼は階段の下で動かなくなっていた。懐中電灯で照らすと、彼の目は見開かれ、口から血が流れていた。だが、それよりも異様なのは、彼の顔に浮かぶ表情だった。まるで何か恐ろしいものを見たまま固まったような、凍りついた恐怖の表情だった。
残った四人は逃げようとしたが、玄関の引き戸が開かない。どれだけ力を込めても、まるで外から押さえられているかのように動かなかった。そのとき、二階から再び囁き声が聞こえてきた。「逃げられないよ」と。声は一つではなく、複数の声が重なり合っているようだった。懐中電灯の電池が突然切れ、暗闇の中で声だけが響く。誰かがすすり泣き、誰かが祈るような声を上げた。
リーダーは震えながらも、懐中電灯を叩いて光を取り戻そうとした。ようやく光が戻ったとき、目の前に仲間の一人が立っていた。だが、その顔はまるで別人のようだった。目は真っ黒で、口元には不気味な笑みが浮かんでいる。「一緒にいよう」と、その仲間は言った。だが、声は彼女のものではなかった。次の瞬間、彼女の手がリーダーの首に伸び、冷たい感触が彼を包んだ。
翌朝、集落の猟師が廃屋の近くで異様な気配を感じ、様子を見に行った。家の中には誰もおらず、ただ、鏡の前に五つの懐中電灯が整然と並べられていた。鏡には新たなひびが入り、表面にはまるで指でなぞったような奇妙な模様が浮かんでいた。猟師はすぐにその場を離れ、集落の者に警告した。以来、誰もその家に近づくことはなかった。
だが、夜になると、廃屋の周辺では今も囁き声が聞こえるという。それは、まるで誰かを誘うような、甘く、冷たい声。集落の者は言う。「あの家は生きている」と。そして、囁きに耳を傾けた者は、二度と戻ってこない。
数年後、廃屋の近くを通った旅人が、偶然その家を目にした。彼は好奇心から家に近づき、玄関の引き戸に触れた。すると、どこからかかすかな声が聞こえた。「ようやく来た」と。旅人は振り返ったが、誰もいない。だが、背後で引き戸がゆっくりと開く音がした。彼が最後に見たものは、鏡の中に映る、無数の黒い目だったという。