静岡県の山間部に位置する小さな町。そこには古びた中学校があった。校舎の裏手には、今は使われていない古い木造の旧校舎がひっそりと佇んでいる。数年前、私はその学校に通う中学三年生だった。部活に明け暮れる日々の中で、旧校舎には誰も近づかないという暗黙のルールがあった。なぜなら、そこには「出る」という噂があったからだ。
私たちの学校では、旧校舎にまつわる怪談が代々語り継がれていた。数十年前、旧校舎で火事が起き、一人の生徒が逃げ遅れて命を落としたという。その生徒の霊が今も旧校舎を彷徨い、夜な夜な足音を響かせるとか、窓に白い影が映るとか。そんな話だった。子供っぽい噂だと笑いものにする生徒もいたが、誰もが心のどこかで気味悪さを感じていた。特に、旧校舎の近くを通る夕暮れ時は、誰もが足早に通り過ぎる。
その年の夏、事件は起きた。私は放送部に所属していて、夏休み中も学校に通い、校内放送の準備をしていた。部活の仲間は私を含めて三人。部長の先輩と、同級生の親友だ。いつもは明るく賑やかな三人だったが、その日は違った。部活が終わった夕方、校舎の裏手で何か妙な気配を感じたのだ。
「ねえ、なんか変な音しなかった?」
親友が急に立ち止まり、旧校舎の方を振り返った。夕焼けに染まる空の下、旧校舎の黒いシルエットが不気味に浮かんでいた。
「音? 風じゃない?」
先輩が笑いながら答えたが、その声にはどこか緊張が混じっていた。私も耳を澄ませた。確かに、かすかに「カタッ、カタッ」という音が聞こえる。まるで誰かが木の床を歩くような、規則的な音だった。
「やめなよ、気味悪いって」
私がそう言うと、親友が急に目を輝かせた。
「ねえ、ちょっと見てこようよ。あの音、ほんとに旧校舎からだろ?」
「は? バカじゃない? 絶対やだよ!」
私は即座に拒否したが、先輩が意外なことに乗り気になった。
「面白そうじゃん。噂の真相、確かめてやろうぜ」
こうして、私たちは半ば強引に旧校舎へと向かうことになった。
旧校舎の入り口は錆びた鉄の扉で閉ざされていたが、鍵はかかっていなかった。扉を押すと、ギィィという不快な音とともに埃っぽい空気が流れ込んできた。校舎の中は薄暗く、窓から差し込む夕陽が床に赤い光を投げかけていた。空気はひんやりと冷たく、どこか湿った匂いが鼻をついた。
「うわ、めっちゃ雰囲気あるね」
親友が冗談っぽく言ったが、その声は少し震えていた。私たちは懐中電灯を手に、ゆっくりと廊下を進んだ。さっき聞こえた足音はもう聞こえない。静寂が逆に不気味だった。廊下の両側には古い教室が並び、どの部屋も埃にまみれた机や椅子が無造作に置かれていた。
しばらく進むと、突然、親友が立ち止まった。
「待って。いま、なんか動いた気がする」
彼女が指差したのは、廊下の突き当たりにある教室だった。ガラス窓越しに、薄暗い室内が見える。そこに、確かに何かがあった。一瞬、白い影のようなものが揺れた気がしたのだ。
「やばい、ほんとにやばいよ! 帰ろう!」
私が叫ぶと、先輩が冷静に言った。
「落ち着けって。たぶん、風でカーテンが動いただけだよ」
そう言いながら、先輩は教室のドアに近づいた。私と親友は怖くて動けず、ただ見守るしかなかった。先輩がドアノブに手をかけ、ゆっくりと開けた瞬間、冷たい風が吹き抜けた。そして、はっきりと聞こえた。
カタッ、カタッ、カタッ。
足音だった。教室の中から、ゆっくりとした歩調で近づいてくる。なのに、誰もいない。教室の中は空っぽだった。懐中電灯の光が揺れる中、足音だけが響く。私の心臓は早鐘のように鳴り、全身が凍りついた。
「逃げろ!」
先輩の叫び声で我に返った。私たちは一目散に廊下を駆け、入り口の扉を目指した。背後では、足音が追いかけてくる。カタッ、カタッ、カタッ。どんどん近づいてくる。私は振り返る勇気すらなかった。ただ、親友の手を握りしめ、必死に走った。
なんとか校庭に出たとき、足音はピタリと止んだ。振り返ると、旧校舎の窓に白い人影が立っているのが見えた。いや、見えた気がした。次の瞬間、影は消えていた。私たちは息を切らしながら校庭にへたり込み、誰も言葉を発しなかった。
それから数日後、親友が学校に来なくなった。最初は夏風邪だと思っていたが、彼女の両親に聞くと、夜中にうなされて叫ぶようになったという。彼女は「あの足音がまだ聞こえる」と繰り返し、精神的に不安定になっていた。結局、彼女は転校してしまった。
先輩もどこか様子がおかしくなった。それまで明るかった先輩が、部活中もぼんやりと旧校舎の方を見つめるようになった。ある日、先輩がぽつりとこう言った。
「あの夜、教室のガラスに映った影、俺の後ろに立ってたんだ。俺の顔を見て、笑ってた」
私はゾッとして、それ以上聞けなかった。
私自身も、あの夜のことを思い出すたびに背筋が寒くなる。旧校舎は今もそこにあり、誰も近づかない。噂はさらに尾ひれをつけて広がり、今では「夜に旧校舎に近づくと、足音に追いかけられる」と語られている。私はもうあの学校を卒業したが、時折、夢の中であの足音を聞くことがある。カタッ、カタッ、カタッ。まるで、私をまだ追いかけているかのように。
この話を誰かにすると、「ただの気のせいだろ」と笑われるかもしれない。でも、あの夜の恐怖は本物だった。私たちの心に刻まれた恐怖は、決して消えることはない。